鉄道と美術の150年 −時代の変化の渦中
現代においてはただの芸術の一つとして、ある種現実社会から切り離されたようなところにあると認識されているのかな、という絵画だが、かつては新聞のように最新情報を伝えるメディアだったり、教養を示すものだったり、あるいは神の言葉を伝える媒介だったりと、色々な役割があった。
時代の変化とともにその立ち位置を変えてきたのは別に絵画に限った話ではないけど、そういう社会的な文脈と紐づけて見ることは一つ面白い視点だといつも思う。
東京駅に直通の東京ステーションギャラリーで開かれている「鉄道と美術」という企画展が面白くて、そんな社会的な意味合いにおける絵画や芸術の立ち位置というのが見せられていてよかったね。
いつだって時代の変わり目、何かが変わりゆくその最中はワクワクするものだけど、そんなムードが感じられる時代の絵画は見ていても面白い。
他方でそこから先に待ち受ける不確定さに対する不安感みたいなものも孕んでいるので、その空気感みたいなものが私は大好きだ。
鉄道と美術の150年
そんなわけで、鉄道をモチーフにした絵画を中心に当時の時代背景なんかを紹介する企画展である。
時代的には1900年くらいから終戦後くらいまでの期間なので、まさに近代化が進む最中の時代のポートレートといったところか。
【開催概要】
今年150周年を迎える日本の鉄道は、明治5(1872)年に新橋―横浜間で開業しました。奇しくも「美術」という語が初めて登場したのも明治5年のことです。(*)鉄道と美術は、日本の近代化の流れに寄り添い、また時にはそのうねりに翻弄されながら、150年の時を歩み続けてきました。
この展覧会では、鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかにしていきます。
日本全国約40カ所から集めた、「鉄道美術」の名作、話題作、問題作約150件が一堂にそろう、東京ステーションギャラリー渾身の展覧会です。【開催期間】
2022年10月8日(土) - 2023年1月9日(月・祝)
出典:鉄道と美術の150年
鉄道自体が150年目ということで、いかにも東京駅併設の施設らしい企画である。
ここは結構いい展示しているんですよ。
個人的見どころ
序盤は浮世絵から展示は始まる。
まだ浮世絵の時代に既に鉄道があったのか、なんてちょっと不思議に思ってしまう。
こちらは当代を代表する浮世絵師、歌川一門の作品だ。
蒸気機関車がまさに入ってきたその時を描いている。
既に服装も洋服の人ばかりだ。
浮世絵らしく、非常に派手な色彩も手伝って、新時代へのワクワク感みたいなものが伝わってくるような思いだ。
こちらは光線画と呼ばれた小林清親の作品。
従来の浮世絵に西洋絵画的な画法を盛り込んだ新世代の浮世絵で、新版画の走りといってよい作家だろう。
私も好きなんだけど、非常に小洒落た作品である。
浮世絵自体が新聞のように、世の中の最新情報を伝えるような役割があったというので、この頃の作品は新時代の夜明けという空気が満ちているんですよね。
しかし、時間が経てば徐々に現実的な側面もフォーカスされ始めるのはなんでも同じだ。
こちらは汽車に乗る人たちを描いた作品。
急に親近感が湧くというか、根本的には今と対して変わってねぇなと感じる。
床にみかん?かなんか落ちているし。
こちらは鉄道をモチーフにした双六で、要するに桃鉄の元祖だ。
これで遊びながら、市井の人は遠くの彼の地に思いを馳せたのだろうか。
徐々に街の景観としても当たり前のものになっていく鉄道、さまざまな画家が当時の最先端を描いたようだ。
今や電線に沿って走る電車の風景など日本的と言っていいくらいかもしれないが、当時は新しい時代の象徴に移ったんだろうな。
さまざまな画家がそれを含んだ風景を描いている。
こちらは当時の新宿駅の喧騒を描いた作品。
後の時代にも度々登場するし、現代社会の一つの象徴のような風景でもある人で溢れる電車、駅の風景は、この時からすでの存在していたらしい。
日本人ってやつの気質は昔から変わらないらしいね。
しかし、時間が経てば徐々に特別も普通になっていく。
特別が普通に移り変わっていく瞬間のドキュメントは、なんだか寂しい気持ちにもなる。
そして時代は戦争の時代に入っていくわけだが、その際のプロパガンダだったりに繋がっていく様はなんだか複雑な気持ちにさせられる。
こちらは駅構内で、群衆に向けて演説をする若者の姿で、資本主義批判の群勢のようだ。
当時は共産主義が一つの理想としてまだ信じられていた時代だったのだろう。
もっとも、今に至れば資本主義も帰路に立たされている時代になっているわけで、この世に”本当の”正解なんてものは存在しないよな、なんて思ってしまう。
こちらは写真作品だが、日中戦争へ出兵する兵士を送り出す催しだったようだ。
当時、こうした俯瞰写真は禁止されていたらしいが、この石川さんが軍部にいたために撮影できたものだそうだ。
彼は何を思ってこの風景を写したんだろうか。
これから起こる新しい希望に胸をときめかせていたような時代と地続きで見ていると、なんだか複雑な気持ちにさせられる。
そして世界は戦争に突入していくのだけど、なんかすごく複雑な気持ちにさせれる。
別に鉄道の存在がそれを招いたわけではないけど、急速な近代化の一つの象徴としてそこにあったのは確かで、生活様式から服装に至るまで西洋化していく中で、何か心持ちが変わったところがあったのかな、なんて思ってしまう。
とはいえ、市井の様子はといえば日常を過ごしていたようだ。
日中戦争の真っ只中だったらしいが、戦地に赴かない人々は日常を引き続き過ごしていたとな。
当時もダイヤなんてものが存在したのかはわからないし、どれだけ正確だったのかはわからないが、今の時代とつい対照して考える時、変わらず淡々と走り続ける電車というのは、なんともいえない存在感を持っているように思う。
そして時は流れて第2次世界大戦に突入、日本は原爆を喰らい敗戦国となったわけだが、大きなダメージを負っても市井の人々は存外たくましかったようだ。
こちらは敗戦直後の池袋駅の東口の風景だ。
豊島区の公式ページにもこの絵画の画像が紹介されているが、今とは全く異なる風景ではあるが、見るとブラウスを小綺麗に着こなした女性も歩いていて、あんまり危機感みたいなものが感じられない。
周りを見ればスラムみたいな有様だが、妙に淡々として映るのが面白い。
それから高度経済成長期に突入していく中でも、何かの象徴であった鉄道。
こちらも写真作品、他にも『過密』という作品もあるが、撮影された1964年当時から満員電車は社会問題だったそうだ。
魚眼レンズで撮影されたこの写真、先週の風景ですといって違和感があるのは服装くらいではないだろうか。
日本人ってやつはこういうのが好きなんだろうか。
しかし、真ん中にいるのは女性というところも、実は60年くらい前の日本と今ってそんなに変わってないのかもしれないなんて思ってしまうよな。
鉄道は蒸気機関車から電車に変わりつつある最中、ブーツも元は軍靴であるわけで、どちらも時代の中で無用の長物となりつつあるもの同士を組み合わせて何を訴えようとしたのか。
絵的にはマグリットを思わせるようなもので、電車の運転手がラバーズのようではないか。
こちらは山手線をジャックしてのアートパフォーマンスの一場面。
顔を白塗りにしたパフォーマーが山手線の吊革に謎のオブジェをぶら下げてみたり、こうしてそのオブジェを舐めてみたりと、前衛的なことをやっている。
狂気じみた場面だが、いわゆる表現欲求みたいなものが迸っている感じがして、この写真が特に気になってしまった。
当時の人たちには奇異に移ったに違いないだろう、私の目にも奇異に移っているんだけど、堪え切れない何かを抱えている感じがなんともいいよね。
アートの存在意義を物語っているようだ。
この展覧会でも一際存在感を放っていたのがこの作品。
セザンヌやゴッホの作品も散りばめつつ、なんだかよくわからないエネルギーを放ちまくっているが、一方でどこか冷めているような印象もあるのがなんともいえない。
真ん中にいる少年は作者自身で、その影響元だったりを書き散らしたそうだ。
デカデカと描かれたラクダの表情も、どこまで本気なのか冗談なのかなんて思ってしまう。
こちらは鉄道の歴史は関係ない、鉄道を描いた作品の一つとして描かれたものではあるが、個人の歴史においても当たり前の風景に落とし込まれた時代の絵画である。
ここまでくると、最近描かれた絵だと言われても違和感はないだろう。
実際描かれたのも92年なので、つい最近である。
といっても、この風景に共感だったり感じいるところがあるのは、おそらく都会で暮らしいる人だろう。
私は大学入学に合わせて関東に来たけど、それまで電車なんてほとんど乗ったことがなかった。
移動が車か自転車、私の日常に電車はなかったからな。
それはともかく、こうして人が溢れているホームも、電車が来て発車した後は急に人がいなくなり閑散とする様は、なんか不思議な感じがしたものだ。
そんな風景を描いた絵画な訳だが、かつての希望を描いた世界でもないし、プロパガンダでもない、ただの日常の中のささやかな違和感みたいなものとして描かれている。
当たり前の風景は、当たり前だと思いながらもふとのその当たり前自体に違和感が生まれる瞬間があって、そんな瞬間を切り取ったような作品である。
特に都会に暮らしていると当たり前の風景である鉄道、こうして考えてみると今に至るも都会の象徴の一つなのかなと思う。
その意味で、日本の中でも実は極ローカルなトピックなんだろうし、だからこそ東京駅の中の会場で見られるというのもいいよね。
この会場は、出口が改札から出た広場を見下ろすようなロケーションになるんだけど、なんとなく見慣れた風景がちょっと違って見えるような思いがするところに、アートの力を感じる。
ざっと上げた画像以外にも、シベリアに拘留されていた香月康雄さんの絵も展示されていたり、絵画だけでなく写真展示もあることで、いろんなパースペクティブがあって面白かったですね。
時代の変わり目のワクワク感と不安感、そして時代が過ぎた時の虚無感などが一連でみられるようないい展示でした。
鉄道と美術の150年と音楽と
さて、そんな鉄道の歴史を振り返る展示会にマッチする音楽って何かと思うと、浮かんだのはこれだった。
鬱バンドとしての立ち位置を確立して久しいバンドだと思うが、彼らは元々Sex Pistolsをはじめとするパンクの洗礼を受けてバンドをはじめた若者だった。
素人目にも演奏は下手くそなんだけど、絵も言われぬエネルギーと魔法が彼らの音楽にはあった。
シングル曲は割と出しているが、アルバムとしては実質2枚しか出しておらず、しかも2ndのリリース前にヴォーカルであり作詞を手がけていたイアンが自殺してしまったことですっかりいわくが着いたバンドだ。
そんな事件もあったせいで特に2ndは歴史的鬱アルバムとして名高いが、1stアルバムには確かに希望もあった。
アルバムの1曲目を飾る”Disorder”も、歌詞は見事なJD世界だが、希望に溢れたような感じだ確かにあるんですよね。
しかし、間も無く絶望を迎えて徐々に息苦しさに変わっていき、閉塞感の中で大きな事件でどん底に落ちていく。
それでも、その後はNew Orderとしてそれ以上の成功と名声も手に入れていく流れはちょっとリンクしているように感じたのでした。
曲単体というよりはバンドの歴史ともリンクするような紐付けなんだけど、急激に変わっていく風景がバンドの激動とかぶってしまう。
近代化という意味合いでも、展示を見ながらずっとこの音楽が流れていた。
まとめ
1800年代末から1900年代の半ばというのは、世界的に激動の時代である。
絵画の発展という意味でも、印象派の登場や、西洋と東洋の邂逅など、さまざまな動きが生まれた時代なのである。
私は印象派の絵が好きで、当初はルノワールのようなわかりやすくキラキラした絵が好きだったけど、最近はロートレックの描くような煌びやかでありながらどこか影のある世界に妙に惹かれてしまう。
新しい世界に希望を持つ一方で、変わることで失われるものや不確実なものが増えていくわけで、必ずしもポジティブなばかりではない。
キラキラした中に一抹の黒い不安を孕んでいるような空気感が、なんとも魅力的に移ってしまう。
今という時代も、全世界的なコロナの影響に端を発して、ロシアとウクライナの戦争が起こったり、仕事やコミュニケーションのあり方も変わってきている。
明らかに時代の変化の最中なんだろうなと感じるわけだが、そのワクワク感と同時に不安感も大きくのしかかっている。
その感じが上記のような時代とリンクして感じられるのですね。
結局どうなるかはもう少し後になってみないとわからないわけだけど、私は今のこの混沌とした感じが嫌いじゃない。
果たして自分が生きている間に一定の決着が見られるのかどうかもわからないが、つまるところ必死に今この瞬間をなんとかしていくしかないのは、いつの時代も同じなのかもしれない。
印象派からエコール・ド・パリへ スイス プチ・パレ美術館展
最近あまり書けていないな、と気づいたのでちゃんと書く。
月に何度かはあいかわらず美術館に行っては絵を見てふむふむといっているのだけど、まとめるのがなかなか億劫になってしまっている。
頭の中の休養のような感じで観ているので、言語化にいたらないのかもしれない。
下書きのままの記事がいくつか眠っている。
とはいえ、きちんと吐き出しておかないと、やはり自分の中に残らないのはなんでも一緒だ。
少し前のものも含めて書いていこう。
印象派からエコール・ド・パリへ スイス プチ・パレ美術館展
私のよく行く美術館がいくつかあるが、SOMPO美術館はそのうちの一つだ。
新宿のど真ん中にあるが、繁華街からは外れているので比較的静かな区域。
まぁ、ビジネス街だから休日は特にね。
その名の通り保険のSOMPOさんのもつ美術館でゴッホのひまわりを所蔵していることでも有名だ。
ここの企画展が毎度素晴らしい。
日本で人気といえば印象派の絵画で、上野辺りはよくゴッホ展なんかも含めて開催している。
このSOMPO美術館も前回も今回も印象派辺りを中心にした企画展ではあるのだけど、王道的なラインナップからちょっと外してくるのよ。
前回は印象派後期の、新しい時代の絵画から一つのスタイルとして確立された頃の代表的な画家2人に焦点を当てたもので、私は初めて観る人たちだった。
シダネルとマルダンという2人だが、いずれも綺麗な絵で、こんな人たちがいたんですね、なんて思ったものである。
そして今回も印象派が中心だが、かなり多様な画家を紹介している。
【開催概要】
スイスのジュネーヴにあるプチ・パレ美術館は、19世紀後半から20世紀前半のフランス近代絵画を中心とする豊富な美術作品を収蔵しています。(中略)世紀転換期のパリでは、多くの画家たちが実験的な表現方法を探究し、さまざまな美術運動が展開されました。プチ・パレ美術館の特徴は、ルノワールやユトリロなどの著名な画家たちに加え、才能がありながらも、あまり世に知られていなかった画家たちの作品も数多く収蔵していることです。本展では、この多彩なコレクションから38名の画家による油彩画65点を展示し、印象派からエコール・ド・パリに至るフランス近代絵画の流れをご紹介します。
【開催期間】
2022.07.13(水)- 10.10(月)
今回はスイスの美術館から拝借した企画展ではあるのだけど、概要にもあるようにルノワールなど人気作家だけでなく、あまり知られていない人の作品も同じくらいのボリュームで展示されており、時代の変化に合わせて変遷も見られるのが面白い。
印象派からキュビズム、エコール・ド・パリへと作風の変化を見るのが絵画史的な観点からも興味深い。
中心的なスターばかりでなく、その周辺にいた人たちが中心だからこそ、却って時代間もでているように思う。
意地悪な見方をすれば広く浅いとも言えるが、それをもとに何を見せるかが企画である。
私は知らなかった画家がたくさんいたのもあって、非常に楽しめましたね。
個人的見どころ
構成は印象派から始まるわけだが、そこでも有名がかよりちょっとその脇のような画家たちが登場する。
まあ、その言い方も失礼なくらい著名な人たちではあるけど、大きな展覧会で主人公にはなっていない画家たちだ。
だからと言ってダメなわけでは全くな意図いうことは一応言っておこう。
こちらはカイユボットの作品。
遠くから見ないとよくわからないというザ印象派というタッチではなく、中間的な印象の作品だが、とりあえずこの子が可愛くない。
それはともかく、顔の描き方と服の描き方が随分タッチが違うのが面白いところだ。
私は彼の作品はアーティゾン美術館に所蔵されているピアノを弾く男のイメージしかなかったので、なんだか新鮮だ。
少なくとも日本ではあまり注目されない画家も出てくるのがこの展覧会のいいところで、なによりSOMPO美術館への信頼である。
続くは新印象派ということで、主に点描画家の作品を中心に紹介している。
点描といえば代表作はジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』という作品だが、この技法の絵について思うのは時間が止まったような印象だという事。
当代の画家では、わかりやすいのはゴッホだが、イキイキとした躍動感みたいなものがしばしば印象的なんだけど、この作風についてはそうでない。
それが何に由来するかはなんともだが、一つは無数の点により表現されるので、その事による画面自体の流動性の断絶によるだろうか。
こちらはアルベール・デュポワ=ピエという人の『冬の景色』という作品だ。
私は雪景色の絵画って好きなんだけど、冬のもつ雰囲気と点描という技法は実にマッチしているように感じる。
他にもたくさんの作品が展示されているので、それらをまとめてみられるのもを面白い。
次の章はナビ派、代表的な作家はピエール・ボナールやモーリス・ドニか。
私はなぜかボナールの絵が好きで、昔六本木で行われたボナールの企画展には珍しく2回も足を運び、図録も買い、今でもたまにペラペラとめくっている。
西洋絵画といえば写真のような立体感が特徴的なものだが、彼らは日本の浮世絵にも強く影響を受けており、平面的な絵を描いたことで有名である。
色彩もサイケデリックで浮世離れしているが、その独特の世界が実にいい。
が、今回はボナールの絵はなかったが、ドニの絵はいくつかあり、そのうちの一つは大きく展示されていた。
それが画像の『休暇中の宿題』という作品で、全体に赤みがかった色合いが印象的な作品だ。
彼は親密画家などと呼ばれたらしく、パーソナルな空間の描き方が非常にうまかったと言われるそうだ。
彼は2回結婚しており、この絵は最初の奥さんとの間の子供との時間を描いたものだそうな。
全体的に穏やかな表情の人物たちが印象的である。
続くはフォービズム、ブラマンクやマティスといった作家が代表的な存在だが、そうでない人たちも多く紹介している。
その中の一人が、ルイ・ヴァルタという人なのだけど、この人の作品が個人的にはかなり刺さった。
画像のものが『帽子の被った女の肖像』という作品だが、絵も言われぬ不気味さがある。
無表情でこの世のものとは思われない色白い顔も、なんか気持ち悪いんだけど、でも妙に見てしまう。
他にも何点か展示されていたが、いずれも独特の世界観を持っており、個人的には大きな発見の一つだった。
ただ、この章で1番印象的だったのはこの作品。
アンリ・ギャマンという人の『室内の裸婦』という作品なんだけど、いわゆる構図というやつがドンピシャに私に刺さった。
言葉にするのが難しいんだけど、真ん中に女性がいて、その足先の配置や周囲のものの配置含めてこの感じすっごい好き、と感じた。
絵画は、現実の世界を写真のように映し取るだけじゃなくて、画家のセンスにより再構築されて表現されるものなわけだが、その際に重要になるのが構図というやつだ。
何をどう配置するかというのも画家の腕の見せ所な訳だが、この絵の構図がバチッと私にはハマったのだ。
なんか好き、という以外の言葉が見つからなかった。
有名でない、あるいは紹介される機会が少ないからイコール作品が劣るわけではないという好例である。
しばらく見とれてしまった。
続くはキュビズム、代表的な作家は言わずと知れたピカソとブラックだ。
技法的に非常に特徴だっているので、個人的にはともすればその技法だけが一人歩きしやすいジャンルだと思っていて、実際そうなっていると思った。
その表現の根本はセザンヌによる構築理論に端を発すると言われており、のちの抽象絵画やバウハウスなどにも連なるきっかけを作った考え方を下敷きにしているのだろうけど、個人的にはよくわからない世界だ。
抽象絵画はちょっとわかるところもありそうとは思うけど、キュビズムってその思想はわかるけど、表現としては形骸化しやすいんじゃないかと偉そうに思えてしまうジャンルだ。
私は正直あんまりわからないジャンルである。
ただ、原初の考え方みたいなところはなるほどと思うので、ジャンル的に異論なく不雑性を孕みやすいなんだろうなと偉そうに思ってします。
最後の章はエコール・ド・パリだ。
日本人でありながらフランスで圧倒的な名声を手に入れた藤田嗣治などが活躍した世界である。
この頃になるとある種洗練された感じもあり、おしゃれだなと感じる。
それこそ藤田の個展も上野で開催された際に行ったのだけど、私は同世代であればキスリングの作品が妙に好きである。
こんな感じの女性画が代表作と言われるのだけど、ぱっと見怖い。
私は東京都庭園美術館で、たまたま気まぐれで行った時に彼の個展が開かれていてそこで初めて見たのだけど、やっぱり最初はなんて不気味な絵なのかしらと思った。
だけど、見終わる頃にはその独自性に取り憑かれており、図録を買って今でもしばしば眺めている。
昭和の化粧品広告のような匂いも感じるけど、ある種美的なものをひたすらつきゅうするような、耽美的というんですかね、そういう世界観がなんかいいのですよ。
今回の企画展の目玉的に展示されていたルノアールの作品よりもはるかに魅力的に映ったものだ。
キスリングだけでなく、私が気になったのはこちら。
ジョルジュ・ボッティーニという人の『バーで待つサラ・ベルナールの肖像』という作品。
当代の有名女優さんだったらしく、他の多くの画家も彼女を描いたとか。
絵で見てもとても綺麗な人だったんだろうなと思うが、何より目線とちょっと窄めた口元がなんとも魅力的である。
私は大人な、ちょっといたずらな感じの女性大好きなので、こういう絵ってつい見入ってしまう。
そのほかでも気になったのはこちら。
テオフィル=アレクサンドル・スタンランという人の『純愛』という作品。
ロートレックのようにポスターなどで活躍した人らしいが、こういう光と影の中の影を感じさせる作品に妙に惹かれてしまう。
ドガやロートレックはキャバレーなどの人の欲望の渦巻くような世界を中心に描いていたことで有名だが、常に暗いものがちょっとだけ描かれているような空気感がたまらないんですよね。
この絵画も男の顔よ。
まあ、そう見えてしまうだけなのかもしれないけど、なんかいやらしい。
路地裏の暗い通りで接吻を交わす男女、男も裕福とはおもえない出立ち、女も地味ではあるが、男ほどではない。
それゆえに純愛感はあるけど、ドラマのようなキラキラ感がないのがいい。
喧騒の間に見えるかすかな影、それは不安を表しているのかもしれないけど、そういう混在した空気ってなんかいいんですよ。
今回展示はなかったけど、ロートレックの絵もそういう影みたいなものが常にあって、だから妙に好きなんですよ。
と、印象派から始まってエコール・ド・パリまで時系列での展示になっているのだけど、技法的な変遷と合わせて時代的な空気感も感じられて、非常に面白い企画展でした。
プレ・パレ展と音楽と
今回は海外の美術館の所蔵作品展ということでチョイスが難しいが、そのミクスチャー感覚と時代性を感じるという意味でこちらはどうだろうか。
UKの現代のポストパンク系代表格、The Horrorsの"Sea Within a Sea"。
80年代のNW、ポストパンク的なエッセンスをふんだんに散りばめつつ、90年代的のThe Stone Roses的なものも感じさせるUKのオルタナを詰め込んだような存在のバンドだ。
デビュー版は怪しげなパンク色強めな音楽から、最近はサイケデリック〜インダストリアルまで取り込んで、過去のリファレンスを感じさせながら独自のものに昇華している存在だ。
当代の音楽が大好きな私のような奴にとってはたまらないバンドだろうが、ある程度音楽を聴いていないとピンとこないかもな、という意味でこの企画展にもマッチしそうかなお思ったがいかがだろうか。
まとめ
時代は連綿と続いており、ある瞬間の出来事がのちの世界に繋がっているのはこの世の中の在り方だ。
それは音楽でも絵画でも政治でも同じで、別にいつの何が正解というわけではなく、続いている世界の中で自ずから示されていく世界だ。
それぞれの世代でスタートなる人がいる一方で、影の役者として密かに時代を紡いだ人たちが大半の世界だ。
そういうものを感じさせてくれるだけで、こういう企画展は圧倒的な価値がある。
まだ始まって間もないのに人が少なかったが、ぜひ印象派とか藤田とかが好きな人は、見入ってほしい展覧会である。
「沖縄復帰50年と1972」「近代日本のメディアにみる怪異」
昨日はふとネットで見かけた『近代日本のメディアにみる怪異』という企画展へ。
ポスターで浮世絵が使われており、それこそ昔はこの浮世絵がニュースメディア的に使われていたというのがあるため、そんなものを期待していた。
またタイトルも,私はメディア系の仕事もやっているので興味をそそられてしまった。
場所は日本大通りにあるニュースパークというところで、ここもいったことがなかったので、これを機会に行ってみようと。
電車に揺られて1時間半くらいだったが、こうして方々へのアクセスが良いのは東京で暮らす楽しさの一つである。
沖縄復帰50年と1972」「近代日本のメディアにみる怪異
あんまり調べずに行ったので知らなかったが、同時開催ということで沖縄の本土返還50周年の記念企画展も開催していた。
このニュースパーク自体、新聞博物館というのが正式名称なので、そうした資料もたくさんあるんですね。
加えて、50 年前のまさに今日沖縄が返還されたとな。
すいません、不勉強でした。
【開催概要】
「沖縄復帰50年と1972」は、今年5月15日に沖縄の日本復帰50年を迎えるにあたり、沖縄タイムスと琉球新報を中心に地元紙が復帰をどう伝えたか、当時の紙面と写真で紹介します。(中略)展示資料は約100点です。このほか、ホワイエでは、2018年に企画展「よみがえる沖縄1935」を共催した朝日新聞社による沖縄復帰を捉えた写真を、前後期で25点ずつ展示します。
「近代日本のメディアにみる怪異」は、妖怪、幽霊、超常現象などの「怪異」について、明治時代以降の新聞がどのように伝えてきたのか、所蔵資料を中心に約110点展示します。(中略)歴史の記録者である新聞は、当時のニュースとともに各時代の怪異の姿、人々の思いを伝えていました。困難な時代を信仰やユーモアで乗り越えようとした、当時の人々の思いに触れていただく展示です。
【開催期間】
前期:4月23日(土)~6月26日(日)
後期:6月28日(火)~9月4日(日)出典:企画展「沖縄復帰50年と1972」「近代日本のメディアにみる怪異」を同時開催 | 企画展 | ニュースパーク(日本新聞博物館)
まずは怪異展について。
結論から言うと、企画はいいけど展示内容が充実していたとは言い難い。
幽霊や妖怪の類について新聞がどう報じていたか、というのが本筋としてあるかと思いきや、それはかなり断片的だし、基本パネル展示メインで浮世絵などは一切ない。
当時の新聞の切り抜きなどの展示はあるのだが、印刷が悪く文字も判読できない。
あるいは昔の新聞なので、旧漢字や文章自体が漢文のようなので、
せめて肝になる記事だけでも、写しとかあるとそれだけでも内容がわかるだけで企画展の意味も増すと言うところだと思うが。
他方で面白いなと思ったのは、単純に昔の新聞記事や掲載されている広告である。
記事については、ちょうどスペイン風邪と言ってインフルエンザが大流行した時期のものがあって、そこには神頼みなぞせんとワクチン打て、といった医師の啓発記事が。
今のコロナの環境と比較される出来事ではあるが、正直今よりもよほど合理性を求めた記事のように思う。
100年以上前の話だが、科学の進歩に人は追いついていないらしい。
余談だが、スペイン風邪っていかにもスペインから始まったように思われるが、実は他の国で先に流行が始まっており、スペインには後から入ってきたのだが、色々と軍事的な衝突もある頃で他国では情報統制がされていたことで単に公表されておらず、スペインはそれはなかったので最初に報道した格好となったことで不名誉なことに名前を冠されることになったとか。
また、他方では晩婚化の記事も。
男女共に結婚年齢が遅れているといるという統計を紹介している。
言うても今よりは若いのだけど、文明開化して、社会構造が変化したことによるもので、記事でも致し方なしといった解説も載っている。
程度の差こそあれ、本質的には同じような事象を繰り返しているようだ。
広告については、梅毒の薬やワイン、赤玉とか白粉とか、多様で面白かったね。
基本的にはテキストメインの広告だが、ちょっとしたあしらいなどに近代のデザイン性の向上につながるような思いだ。
本編に戻ると、かつては東京大学主席合格をしたような人が、当時まだ世に蔓延っていたオカルトを否定して、そうした事象を全て科学的に解決したろ、といった動きをしていた人もいたんですね。
読売新聞で妖怪の紹介コーナーがあったくらいなので、割と日常的にそうした報告なりがあったのだろう。
今となっては東スポくらいしかそんな情報が掲載された新聞はないが、意外と伝統的なコンテンツであるらしい。
そうして科学的に〜という人に対して、今度は別の人が、そんなことあえてせずに趣味の領域だから放っておいてあげたらどうか、といった言説も上げるようになるのが面白い。
宗教も同列で語られているあたりがなんだか日本っぽいなと感じるが、そうして楽しんでいる人がいるのだから、躍起になって否定せんでもいいじゃないかというのだ。
なんだか懐の深さを感じるし、当時の人の価値観って存外そんな感じだったのかな。
今では否定しないと気が済まない、型に嵌めないと気が済まない、白か黒か言わないと気が済まないといった具合に、どんどんあそびの余地をなくすような動きが多くなっているが、それって趣味なんだか好きにさせてあげようよ、と新聞が論じるのが面白いなと感じる。
少し話は違うけど、最近ではマスクを屋外で外していいかどうかといった議論があるらしく、それをわざわざ政治家がいう訳であるが、それに対して市井の反応は「ちゃんと決めてくれ!」「個人の裁量に任すなんて無責任だ!」といった声が少なからずあるらしい。
なぜ自分から自由を手放そうとするのかわからないが、やはり世の中には一定の割合で自分で意思決定できない人や、臨機応変に対応できない人、自分ルール以外知らない人と、さまざまな人があり、どうもそういう人に限って声がでかいという特性があるので、でかい声で僕たちを縛ってくれ!と叫んでいるわけだ。
まあ、そういう人はどんな場合にも自分以外のところに責任を求めたいだけなのだどうから、何をどうしようとあまり関係ないように思う。
ともあれ、時代を経て人は進化したんだろうかと考えてみると、本質的に人は進歩していないし、なんなら自分でやらなくても暮らしていける環境がでてきた分、ダメな奴は増えたんだろうな。
最近格差が拡大しているとか言われて久しいけど、当たり前だよなと思う。
その辺りはまた機会があれば、別なところで書こう。
かなり展示自体が少なかったので、15分かそこらで見終わってしまった。
入場料400円なのでそれに期待するなと言わればそれまでだが、別に1000円でもいいからしっかり金とって、その分見応えのある展示をしてくれたら、今回に限らずまたこの施設自体のリピーターにもなるのにな。
そして同時開催の沖縄展だが、こうして写真で残っているものと、当時の新聞を並べてみながら時代を見ていくと、その紙面はいずれも歓迎ムードといった感じだったんですね。
そりゃそうなのかなと思いつつ当時の時代がわからないから、当事者たちが何を語るかというのがあるともっと面白かったのではと思いつつ。
ただ、新聞というある意味では第3者的な視点で追っていくのはそれはそれで大事なものなんだろうな。
終戦後にアメリカに併合されて、通貨を円からドルに交換させられたり、逆に返還の時にはドルを円に交換するという動きもあったのだから、当事者の人たちは大変だったろうね。
こちらでも広告が世相を反映しており、今でいうJTのたばこの広告とか、日産だったかの車の広告、銀行の広告など、なんだかわかりやすく時代の変わり目を表現しているようで面白い。
ちなみにタケダ製薬の広告では女優の原沙織さんがでており、その上には緊張感あふれる記事が展開されている。
常にどこか他人事なメディアという存在は、その後今に至るも一定の権力を持ってきたのはそれはそうだったんだろうなという気もするよね。
ともあれ、50年経っても解決されていない問題もあるだろうし、本質的に何かがわかったのかなとこういうのをみると考えさせられますね。
展示の下はこちらの方が、記事の抜粋もあって丁寧な印象でしたね。
メディア展と音楽と
さて、今回は特定の事象や人物というよりはその周辺的なものを切り取っているので、ちょっと難しいところである。
どうしたものかと考えたが、こちらなどうだろうか。
God Of Technoと呼ばれるご存じクラフトワーク、そのキャリア終盤のアルバム『The Man Machine(邦題:人間解体)(1978年)』に収録された"The Robots"。
全て打ち込みで音楽を作るというスタイルで新たな地平を作った彼らの音楽活動は常にテクノロジーとも隣り合わせだった。
このすぐ後のアルバムでは、当時劇的に進化し始めていたパソコン(計算機という方がしっくりくるかもしれないが)をモチーフにしたアルバムで、そのうち人間の能力を機会が上回っていくんじゃないか、なんていうサイエンスフィクションチックな危機感を抱いていたのだが、そのアルバムが出る頃にはある種それが現実になっていたなんて話もあるらしいが、当時の進化は等時代に生きていた人たちにとっても劇的なものだったんだろうね。
それを経てこのアルバムは、全体的に暗いというか不気味というか、それまでの明るく楽しいダンスミュージックといったイメージだったところから一転した作風は当時にも色々物議だっただろう。
アルバムタイトルも、ビジュアルアートも含めて人間が機械に置き換わっていく世界を描いている。
邦題もなかなか秀逸だと思う。
彼らの音楽自体も、今聴けばよく聴く感じだよね、という感想を持ちそうだが、何を隠そうかれらがそれを当たり前にしたのだ。
少し遅れて、YMOがもっとポップな楽曲で世に躍り出て、しかも打ち込みを主体としつつもドラムとベースのリズム隊は生演奏というスタイルで、海外で爆発、よりテクノポップというジャンルの拡大に寄与したのは有名な話だ。
ドラムとベースはリズムを刻む楽器だが、アフリカの音楽でもビートだけはあって、日本でも和太鼓など昔からある音楽では必ずあったのはこの重低音だ。
それを人力にすることは、ひょっとしたらクラフトワークのコンセプトに対するアンチテーゼ的な意味合いもあったのかな、とか勝手に考えてみたり。
ともあれ、音楽でも時代の変わり目だったり、新たなジャンルが生まれる瞬間を作り出した人たちがいて、そレは今では古典の領域ではあるが、振り返って聞いてみると非常に興味深く、今と変わらないところと変わったところが色々見えて、結局変わっていないのは人間というものの在り方なんじゃないかと思う。
以前は存在そのものが機械に置き換わるとか、機械に支配されるという恐怖心に近いものがあって、今はそれはだいぶないと思うけど、今度は仕事が奪われて働き口がなくなる、と危惧している人が増えているし、そうしたことをビジネス雑誌でも喧伝している。
それはやばいぜ!とみんな心配しているのだけど、でも仕事をあえてしなくても暮らしていけるようになれば、それはそれでいいんじゃないなかと個人的には思っている。
もちろんそうした社会を作っていく存在は必要で、それは政治家よりも起業家と呼ばれる人たちなんだろうなと思うけど、そういう人は何もせずに生きていける人を増やすために色々とやっていく訳だから、それがお金なのかなんなのかは別にして然るべき恩恵を受けて、ただ暮らしている人はその人生を全うするためだけに時間を使って、わがまま言わないでくれればいいんじゃないかな。
そういう社会になったら、政治家の仕事はその何もしない奴ら、きっと例によって文句ばっかり言うだろうから、そう言うのを収めることが仕事になって、起業家の人たちのストレスを減らすような役割になるのかな。
そんな構造が出来上がったら、きっと神と呼ばれる存在がそういう社会や世界を作る人たちになっていくだろうから、宗教のあり方も変わるのか、あるいは逆に旧時代的なまでにすがる人が増えるかのどちらかかなと思うけど、後者の方に振れるだろうな。
人間というのはどうも自分が大切な存在であると思いたいらしいが、ほとんどの場合それを示す力も能力も、まして行動すらもしていないから、何もせずにすがれる宗教くらいしかなくなるだろう。
そうすると宗教家が跋扈して、口の旨いやつが〜といった妄想をしていると果てしないが、面白いのでまた機会を改めて考えよう。
いずれにせよ、今は時代の変わり目なので、ぼーっとして享受することしかできない人は淘汰されていくんだろうな。
今は貨幣価値でそれが歴然とあらわれているが、数年後はまた違う価値観のもとに何かが動いているかもしれないね。
まとめ
なんだか話が脱線して色々と散らかってしまったが、展示内容が少ない分考える材料としては良かったのかも。
私の趣味はあれこれ考えることで、書店に行ったり街をうろうろしたり、特に何をするでもなく過ごすことも好きんだけど、最近気がついたのは私はそうして考えの種を探していて、そういうところから一定の法則性だったり共通項だったりを自分なりに設定してあれこれと考えることがとても楽しい。
こういうブログは、ある意味ではそれらのアウトプットとして文字化しているだけなのだけど、金もつかわないのでなかなかおすすめである。
事実と事実をつなぎ合わせていく作業がなかなか面白いんですよ。
そんな私は起業家にはなれないので、来る世界では宗教家を目指して今から人望か人離れした顔貌を手に入れておこう。
ふつうの系譜
この連休はひたすらゆっくりまったりしている。
元々遠出にあまり興味もないし、何か計画するとその通りにしたしないと気が済まなくなるタチなので、予定は立てずにその日その日で過ごしているが、強いて言えば趣味を謳歌したろ、という点くらいか。
音楽を聴きながらうろうろするのが好きなんだけど、この連休は方々の美術館へ行きながら、少し散歩をして夜は酒を飲む。
そんな日々だ。
で、昨日行ってきたのが府中美術館で開催中の企画展、『ふつうの系譜』というもの。
府中美術館は日本の美術品を多くコレクションしているが、特に狩野派とか円山派のような伝統的な日本の絵画作品なんかを展示している。
他方で大津絵のような緩い作品を集めた企画展もやっており、なかなかにユニークである。
立地は駅から少し離れた公園区画にあるため、美術館を覗きがてら散歩するのもおすすめだ。
連休といえど遠出のできないファミリー層で溢れていたね。
当の美術館の客入りはぼちぼちといった感じで、見る側にとっては極めて快適な密度であった。
春の江戸絵画まつり ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります ー 京の絵画と敦賀コレクション
まず展覧会のタイトルが長い。
こちらは昭和中頃に著された辻惟雄さんという人の著書『奇想の系譜』のいわばパロディーである。
この書籍に基づいた企画展も上野で開催されたが、この書物もあって近年では人気作家になった伊藤若冲、蘇我蕭白らといったやや王道とは異なる人たちが注目をされるようになり、近年では個展まで開かれていたり、海外でも人気であったりする。
一方でそうした変わり種の作家が注目されることで、伝統的な王道の作家たちは,いわば教科書的な扱いとなり、注目度は高く無くなってしまった。
なので、この企画展ではそうした作家をふつうと位置付けて、俗に言う普通にいい絵を紹介しようというわけだ。
こういう企画力は好きですね。
【開催概要】
「奇想」への注目によって「ふつう」になってしまった江戸時代の「きれいなものづくり」──そこには、豊かな歴史と美の手法が生きています。そんな「ふつう」の魅力を知れば、奇想も、そして「日本美術史」という更なる広い世界も、もっともっと輝いて見えることでしょう。
【開催期間】
2022年 3月12日[土]– 5月8日[日]
前期:3月12日[土]– 4月10日[日]
後期:4月12日[火]– 5月8日[日]
私は音楽なども含めて、王道、メインストリームよりもオルタナ、アバンギャルドを好むところがあるのでつい真っ当なものを見ないでいてしまうが、歴史に残るようなものはやはりいいものは良くて、且つ実はそれはそれで奇妙さもちゃんと持っていたりする。
多面的な価値観を育むためにも,こういうひねくれ方は良いですよね。
といいながら結局王道ではない企画を評してしまう辺りが私という人間の価値観である。
何はともあれ面白ければ結果オーライだ。
個人的見所
今回は構成も面白く、冒頭はしっかり企画の趣旨を文章で説明して、まずは奇想と呼ばれた作品を見せていく。
蘇我蕭白や岩佐又兵衛といった作家の作品を通して、今人気の奇妙な人たちの絵を見せていく。
個人的にはこっちの方が見慣れてしまっているのだが、私が絵をちゃんと見るようになってからはそういう企画展の方が多かったからなんだなと思う。
なので、そもそも王道を知らずに育ったので、正直これを奇妙だと思うことはなかった。
こういう絵もあるんだな、くらいである。
もちろんモチーフの奇妙さや不気味さ、あるいは表現としてのグロテスクさのようなものくらいは感じるが、奇妙という感覚ではないという話である。
といって、こちらは走り描きのように描いたらしいが、それでもこのクオリティ。
技術は伊達じゃないよね。
さて、この企画展における普通とは何か。
企画テーマでも語られているように、伝統の中で研ぎ澄まされてきた表現である。
日常にまで取り込まれているものなので、見慣れているからこそ普通に感じてしまうが、実はそういう当たり前になっていることがどれだけすごいのかという話である。
こちらは土佐光起という人の『菊鶉図』という絵。
シンプルな構図だが、鶉の描き方も極めて精細かつ写実的、添えられた花もさりげなく、実に日本的な侘び寂びを感じる作品である。
またこちらは狩野探幽の『朝陽鷹図』という作品。
狩野派は幕府お抱えの絵師集団で、探幽は江戸城や二条城の障壁画も手がけている。
荒々しい岩肌の上に白い鷹が凛として描かれており、点には赤い太陽が輝いている。
昔田舎で見た日本の絵ってまさにこのイメージだったなとなんとなく記憶している。
当時は地味でつまらないと感じたが、今見るとだいぶ見え方は違うんだろうな。
また、日本画に写実的な技巧や考え方を持ち込み一派を築いたのが円山応挙である。
まずは対象をしっかり観察することで、その対象の本質的な描写につながるとして、ただ単にリアルに描くという技法的な話だけでなく、絵を描くとはどういうことかという哲学的な視点が当時は鮮烈だったようだ。
ちなみに彼は硬いモチーフもあるのだけど、有名なのはむしろ動物の絵で、とりわけ子犬を可愛く描くことに執心していたとか。
子犬の絵は多くあり、コロコロとして目がキラキラした様は可愛らしいし、実際彼の「ここ可愛くない?!」みたいな思いが伝わってくるような絵となっている。
先の彼の哲学も表現されているように感じられるので、そういう意味でも面白いと思う。
今回は初めて観る画家も多く、その中の一人が岸連山という人。
岸駒(がんく、と読むらしい)という人を開祖にした岸派と呼ばれる一派の一人だが、この人の『龍虎図』というえが実に迫力があってよかった。
ちょっと荒い画像しか落ちてなかったが、暗黒から龍が立ち現れた様を見て、虎が吠えているような構図で、精密さと荒さのバランスもあってかっこいい絵である。
龍虎のモチーフは数多くあるけど、特に虎は画家によっても描き方が違って、実物を見たんだろうなという人と、何か古典を参照しているのだろうなという人とあって、そうしたところを考えてみるのも面白い。
他にも非常に印象的な絵がたくさんあったのだけど、残念ながら画像が落ちていなかった。
そんなに有名ではないのかもしれないが、こういう企画展で知られるのは良い経験ですよね。
引き続きこんな企画をお待ちしています。
ふつうの系譜と音楽と
さて、今回の企画趣旨から考えると、やはりこちらだろうか。
まあ、こちらはちゃんと評価も抜群で、もはや言わずと知れたレジェンドとなっているはっぴいえんど。
細野晴臣、松本隆、鈴木茂、大瀧詠一という昭和歌謡曲を作り上げたと言っても過言ではないメンバーがいた文字通り伝説のバンドだ。
アイドルポップからシティポップ、テクノにロックにとそれぞれのソロも含めて圧倒的な音楽性でもって存在していた。
何度も再評価されているくらいだし、山下達郎らも含めてJ-POPの雛形とも言える存在たちだろう。
彼らはアルバムとしては3枚だけ、活動期間もほんの数年だったが、日本語でロックを奏でるという基礎を作ったのもの彼らだ。
この“風をあつめて”という曲はTVCMでもしばしば使われていたり、いろんなアーティストにカバーもされているので、聴いたことある人の方が多いだろう。
当たり前を作った人って、やっぱりすごいよね。
まとめ
ふつうに感じるものも、かつては異端だったものがほとんどで、それが時代を経て受け入れらて、当たり前になっていったわけで、そうなるにはそれなりの理由があるのである。
もちろん権力に守られるという外的な要因がある場合もあろうが、そうはいっても伝統的とされる一派も当時の時代では新しい風を吹かすためにあえて選ばれたという経緯もあるという。
絵画や芸術だけじゃなくて、スマホだってそうである。
これなんてほんの10年かそこらの出来事だよ。
時代は変わっていく画、変わってもなお残り続ける普遍を作っていけると良いよね。
生誕110年 香月泰男展
もう終わってしまったのだが、先日観に行った展覧会について。
香月泰男さんという人の回顧展で、昨年から全国巡回していたようだ。
私はこの人のこと自体知らなかったのだが、ちょいちょい足を運んでいる練馬区美術館だったし、個人に焦点を当てた企画展はできるだけ足を運んでおきたいなと思っていたので、最終日に滑り込みで行くことに。
結果、とても良くて色々と考えさせられるものであった。
彼は第二次大戦で出兵しており、一時シベリアで捕虜として捕まっていたそうだ。
幸にして生きて帰国することが出来たので、画家としてさまざまな作品を残したわけだが、代表的なのがシベリアシリーズと呼ばれる、この捕虜の経験を題材にした一連の作品だった。
ポスターにもあるように、この時期の絵はほぼ白黒で表現されたもので、モチーフもモチーフなので明るい綺麗な絵ではない。
しかし、不思議と陰鬱な気持ちにはならなかったな。
ムンクの絵はずっと陰鬱さがあって私は苦手だなと思った記憶があるが、リアルに生死の恐怖の最中にあった人のその経験に基づく絵がなんでこんな受け取り方になったのか、そんなことを考えながら観ていた。
また、いくつか画像は貼ろうと思うけど、画像で見るとただ暗いだけの画面にしか見えないかもしれない。
かなり抽象化された絵を描いていることもあるが、この絵は生で現物を見ると見ないとでだいぶ印象が違うだろう。
画面の凹凸や、ナイフで引っ掻くことで描いているため、平面プリントではよくわからないのだ。
そういう意味で、改めて絵画も現物を見てこそと思ったものだ。
ともあれ、図らずもこんなご時世の中で観ると、非常に印象的な作品群だった。
生誕110年 香月泰男展
彼は囚われの身になっている間もずっと絵を描きたいという思いに駆られていた。
実際に画材道具も肌身離さず持っており、そんな思いを描いた作品もある。
先にとても陰鬱な環境のはずなのに、また暗い図柄であるにも関わらずそうした感じがない、と書いたが、ひょっとしたら彼の中の希望が映し出されているからかな、とも思ったものだ。
【開催概要】
太平洋戦争とシベリア抑留の体験を描いたシベリア・シリーズにより、戦後美術史に大きな足跡を残した香月泰男(1911-74)の画業の全容をたどる回顧展を開催いたします。
山口県三隅村(現・長門市)に生まれた香月泰男は、1931年に東京美術学校に入学し、(中略)1942年に応召し、復員した1947年以降は、故郷にとどまって身の回りのありふれたものをモチーフに造形的な挑戦を繰り返しました。1950年代後半に黒色と黄土色の重厚な絵肌に到達した香月は、極限状態で感じた苦痛や郷愁、死者への鎮魂の思いをこめて太平洋戦争とシベリア抑留の体験を描き、「シベリアの画家」として評価を確立していきました。
(中略)
本展では、シベリア・シリーズを他の作品とあわせて制作順に展示します。この構成は、一人の画家が戦争のもたらした過酷な体験と向き合い、考え、描き続けた道のりを浮かびあがらせるでしょう。戦争が遠い歴史となり、その肌触りが失われつつある今、自身の「一生のど真中」に戦争があり、その体験を個の視点から二十年以上にわたって描き続けた、「シベリアの画家」香月泰男の創作の軌跡にあらためて迫ります。
【開催期間】
2022年2月6日(日)~ 3月27日(日) ※途中展示替あり
出典
遠くになったと思っていた戦争は、未だに身近なものだったわけだが、当時加害者でもありある意味被害者でもあった画家の観た世界はどんなものだったのか。
個人的みどころ
彼の初期はこの坊主頭の少年がよく登場する。
彼自身を投影したものだと言われているが、顔は描かれておらず、後ろ向きだったり微妙に影になっていたりという感じだ。
どこか暗鬱さのある画面で、コメントでも「死の誘惑に駆られたこともある」といったことを言っている。
特に中学生くらいの時期のようだが、とはいえある種普遍的な生についての懊悩だろう。
ちなみに、こういった絵を描く際に彼はモデルは使っておらず、自らが彫った彫像を見ながら描いたそうだ。
その彫像も残っており、絵の構図ごとに作っていたのだろう。
なんでだろうと考えると、モデルがいるとそちらに感情移入してしまうので、自分の投影として描けなかったのかもしれないね。
ともあれ、個人的には雰囲気が少しピーター・ドイクみたいだなという印象もあった。
その後第二次世界大戦が始まると、彼は満州へ出兵させられ、そこでソ連軍の捕虜となり、シベリアなどで強制労働に従事させられる。
彼の画業は帰国後に本格的なキャリアになるが、戦争の経験は当然作品に影響はするわけだが、それでもしばらくはそこまで強烈なメッセージ性のあるものでもなかった。
ある時期からキュビズムに接近していくのだけど、そこから徐々に独自の画風を確立させていく。
彼の作品タイトルはまんまのものをつけていることが結構多い印象だが、この頃はとにかく絵を描くのが楽しかったので、描くために描いていたような感じだったのかな。
また、画面はどんどん抽象化され、また色彩も少なくなり白と黒の画面構成が中心になっていく。
そこから戦争体験をダイレクトなモチーフに描かれた作品も出てくる。
こちらはずばり『埋葬』というタイトルだが、現地で亡くなった同僚を埋葬しているシーンだ。
物資もまともにない中なので、顔に薄布をかけただけの状態、こちらを向いて俯いて座っているのは香月本人。
この絵には本人のコメントも添えられていたが、「正視できなかった」という。
そりゃそうだ、数少ない仲間の喪失もさることながら、明日は我が身かもしれないという恐怖心もあっただろう。
この頃から明確に戦争体験を絵画に落とし込むようになったそうだが、先の表現的な探究と合わさって彼の代表作と言われるシベリアシリーズへと繋がっていく。
シベリアシリーズは、基本的に白と黒のみで構成されており、また人物の顔は全てこのような形で描かれている。
安らかにも見えるし苦悶にも見える絶妙な表情だ。
抽象化されているので明確ではない分そこから色々と想像を掻き立てられる。
この絵は、作業場を移動させられる時の列車を描いたもので、捕虜なので鉄格子の向こう側に押し込められている。
こうした図柄だと、いかにも不安そうに見える表情たちだ。
シベリアシリーズでは動物を描いたものもいくつかあり、その中でも代表的と言われるのが『鷹』という作品。
画面の下半分は真っ黒に埋め尽くされており、上部3分の1程度のとこで空と鷹が描かれており、彼は今まさに飛び立たんとしていながらこちらを向いて何か言いたげだ。
こちらは香月が飼っていた鷹が、足につけられたリードをちぎって飛び立ったのところをモチーフにしているそうだ。
その時に、ふと繋がれた鷹と囚われの自分を重ねながら、この状況から飛び去ることができる鷹を羨ましく思ったとか。
自分は人間だから、羽はないからね。
とはいえ、絶望に暮れているというよりは少し期待のようなものも抱いたという。
全体として閉塞感や先の見えない不安を描いたものが多いが、中でも殊更に印象的なのが、こちらの『1945』という作品。
先の絵のように移動させられてる列車の中から見えた、日本兵が現地民にリンチを受けて、生皮を剥がれた凄惨な状態で道端に打ち捨てられている様である。
顔は例の描き方、白黒なのでぱっと見ではそこまでインパクトがないように感じられるが、この絵は生で見るとなんか虚しい気持ちにさせられる。
特定の誰かではない顔だからか、結局戦争の被害者と加害者というのは誰なんだろうとか思うよね。
出兵させられる兵士も、正規な軍隊ではなく民間人が徴兵されている。
国の意思として戦わされて、当然攻撃された側にとってはとんでもない自体だ。
ただ、他方で攻めている側も必ずしも彼の意志ではないわけだが、こうして捕まれば憎悪の対象として徹底的に酷い仕打ちもうける。
でも、そのことで何かが解決されるわけでもないのが虚しいと感じる。
結局誰が何を得るのだろうか。
もちろん占領した土地の資源なり人なりを取り込むことで、ゲーム的に見ればステータスが上がるというくらいはわかるが、特に今のような時代においてそうまでして得た資源からのメリットよりも、実は派生する他の国からの圧力だったりから受けるマイナスの方が大きい時代になったんじゃないかなとか思うわけだ。
大戦当時はまだ全時代的な価値観があったんだろうけど、今ん時代から見ると結局何なんなのだろうとか思ってしまう。
今はまさにロシア・ウクライナ間で戦争が起こっているので、目の前に起こっている現実としてそんなことも考えてしまう。
こちらは『朕』という作品だが、朕は国家元首が自称する際の一人称だが、有名なのは「朕は国家なり」というルイ14世の言葉だろう。
日本でいえば当時は天皇がそういう存在だったわけだが、そんな天皇の言葉を聞きながら描いたというのがこの絵なので、戦争というものの主体者が誰なのか、というところだが、実は誰もいないようにも感じてしまう。
国という概念があるから自我のようなものが出てくるが、かといってたった一人がそれを更生しているわけでもないだろう。
結局のところ、一体誰がやりたんだろうかと考えるとわからなくなってくる。
ロシア・ウクライナではプーチンが悪者として連日報道されているが、本当に彼一人の意志で動くものだろうか、と不勉強ながらそんなことも思ってしまう。
今の状況では、日本も他人事ではないというところがよりヒリヒリした嫌な不安感を煽って来るのだけど、人間という生き物の因果を感じる思いだ。
その後彼は幸運にも生き延びて日本へ帰国する。
こちらは帰国船にのるために列をなす捕虜たち。
右側はまさにぎっしりという感じで、左側ではどこか足取り軽く歩く姿が描かれている。
待ち焦がれている様が感じられるようだ。
そこからは色彩を伴う表現がまた増えてくる。
こちらは『日の出』という作品だが、対になるように『月の出』という作品もある。
シベリアシリーズにおいても太陽の絵はあるが、真っ黒な太陽を描いているので、それに比べると何か生命のようなものを感じる。
赤いしね。
他にも戦争モチーフ以外の絵も描くようになったわけだが、最晩年に描いたのはやはりシベリアでの記憶に基づくものであった。
この『渚<ナホトカ>』という作品は、シベリアで浜辺で寝た時の記憶を起こしたものだそうだが、よく見ると黒い帯の中には無数の顔が描かれている。
彼の言によれば、「この顔は日本に帰ることなくシベリアの土になった人たちを描いたように思う」とのことだ。
勾留中も、彼は画材道具を肌身離さず持っており、同僚の顔を描いてその遺族に送るために書き溜めていたという。
その絵自体はソ連兵にみつかり破棄されてしまったのだが。
ともあれ、無事に日本に帰った自分に対して、帰ることの叶わなかった同僚たちの顔を彼は忘れることはなかった。
シリーズ初期に描いた絵画では、亡骸になった同僚の顔を正視できなかったと述壊した彼だが、やっぱり忘れ得ぬもの、というのはあるだろう。
1974年に心筋梗塞によりこの世を去ったのだけど、もし彼がもっと長くえがいていたら、晩年の絵はもっと違う、明るい絵を描いていたんじゃないかなと勝手に思っている。
冒頭にも書いたけど、彼のモチーフは非常に重たいものが多い。
だけど、絵そのものからはそうした陰鬱さはあまり感じない。
その理由ってなんだろうかと考えてみると、彼にとって絵を描く行為は幸福そのものであったので、そうした感情が反映されているのかなと。
わかんないけどね。
香月泰男と音楽と
こんな彼とマッチしそうな音楽って何かなと考えてみると、なかなか難しいがこちらなどどうだろうか。
日本の誇るロックバンド、8ottoの“Rolling”という曲。
流石に戦争体験を持っているような人はなかなかいないので、表現者としての幸せというか、そういうもので通じる物がありそうかなと。
彼らは2006年に1stアルバムをリリース、Strokesの2ndでエンジニアとして参画していた人をプロデューサーに迎えていたという話題性と、音楽性自体もシンプルでタイトな演奏にやや気だるそうなヴォーカルも含めて、日本のStrokesみたいな評もあった記憶だ。
特徴的なのは、彼らはドラムヴォーカル、このアフロは天然らしいがともあれヴィジュアル面でもインパクトがあるが、曲はクールな部分とエモーショナルな部分がそれぞれあって、キャリアを重ねるごとにファンクネスもありながら、とりあえずかっこいい曲をバンバン作っていた。
そうした音楽的な評価はコアな音楽ファンを中心に高かったんだけど、商業的にはうまくいったとは言えず、一時活動を休止していた。
家族もいるので、生活のためにはお金を稼がなければいけないという、多くのバンドの抱える問題に直面してしまったのだ。
それでも、やっぱり音楽やりたいという思いから活動を再開、2017年には6年ぶりとなるアルバムをリリースして、以降はマイペースに音楽活動も継続している。
俗に言うライスワークとライフワークみたいな話だけど、そんな苦悩を描いたのがこの“Rolling”という曲で、30過ぎの働いている人だったら共感できるとこ路もあるんじゃないだろうか。
「働いて、ぐらついて、逃げたいって、星を見る」というところから始まり、現実と理想の間での苦悩を感じるが、それでも自分にとっての幸せがなんなのかということが歌われている。
ほんのちょっとでも、たった一人でも、自分達の音楽を聴いて何か思ってくれるならそれでいいよって。
ここには彼らの純粋な表現者としてのコアがあると思っていて、実際再開以降の活動はとにかく楽しそうだ。
ヴォーカルはマエノソノマサキさんという人だが、ソロ名義の活動も始めたり、配信もしょっちゅうやったり、とにかく楽しそうなのがいい。
そして彼の価値観の大きなところが、いわゆるワンラブてやつだ。
ともあれ、絵を描くことがこの上ない幸せだったであろう香月さんと、音楽をやることがこの上なく幸せな8otto、どちらにも人生の在り方みたいなものを個人的には感じるのである。
私は昔から人生の意義みたいなものを考えがちなたちで、それはいまだに続いている。
一定の収入はあるが、独身で友達はいるが恋人はいない。
それが時々寂しい気持ちになることもあるが、他方で多分そのほかの人と比べるとそこまで悲観もしていない。
貯金はないので将来の不安がないわけじゃないけど、最悪自分一人で生きていく分にはなんとかなるんじゃないかと思っている。
ただ万が一はあるから最悪の備えは、人に迷惑をかけないためにもしておかないといけないとは思うけど、それ以外は自分にとって楽しいと思える時間にどれだけ人生を使えるかだけである。
それは一定満たされている状態なので、私は結構幸せだなと思って生きている。
自分の中にそういう思いがある人生が幸せなんだろうな。
終わりに
人生は理不尽に思えることの方が多いが、いずれにせよせいぜい100年もない時間である。
意図しないものに巻き込まれもするけど、それはそれとしてどう向き合って、せめて楽しいものを見出していけるかしかないと思っている。
無理に明るく振る舞う必要はないし、無理やり幸せだと思うこともない。
まして人の幸せをみて呻吟したり恨んだりしてもしょうがないし、妬んでも仕方ない。
また自分の幸せを申しわけなく思う必要もないし、めっぱい夫々で幸せになれば良いのである。
楽しいことが一つでもあれば、それは幸せな人生なのではないかな、なんて思ったものである。
絵画のゆくえ 2022
最近いまいち気持ちが盛り上がらず、あまり感情が動かない。
この3連休も何をするでもなく時間を過ごしてしまい、気がつけばもう最終日か。
まあ、こういう時は徹底だらだらすることが自分にとっていいと言うのは経験的にわかっているので、素直にだらだらしている。
で、美術館も行っているんだけど、なかなか書くまでに至らなかったがだいぶ間も空いているのでちゃんと書こうと。
先週若手?の注目アーティストの作品を集めた展覧会へ行ってきたのでそちらについて。
絵画についてはなかなか掴みきれていないため、まずは古典を漁っている段階だったが、だいぶ時代が近代に近づているので、せっかくならリアルタイムで追いかけるところも欲しいと言うわけだ。
そもそもどんな人がいるかも知らないので、そのきっかけになればこれ幸いである。
絵画のゆくえ 2022
SOMPO美術館で開催されている企画展で、FACEというコンクールの入賞者の作品を中心に展示しているものらしい。
全て現役のアーティストなのだが、割と系統もさまざまで、作家ごとに色も違うのが面白い。
【開催概要】
2013年に創設された公募コンクール『FACE』は、年齢・所属を問わない新進作家の登竜門として数多くの応募者を毎回迎えております。(中略)
本展は、FACE2019からFACE2021までの3年間の「グランプリ」「優秀賞」受賞作家たち12名の近作・新作約100点を展示し、受賞作家たちの受賞後の展開をご紹介します。また、当館所蔵作品となった「グランプリ」受賞作品2点も併せて展示します。
時代の感覚を捉えたFACE受賞作家たちの数年間に亘る作品によって、絵画のゆくえを探る展示となることでしょう。
【開催期間】
2022.01.14(金)- 02.13(日)
個人的見どころ
大小様々なコンクールはあるんだろうが、その傾向まではさすがにわらかない。
とりあえず作家ごとに展示はまとめられているので、一定の作風を見ていけるのは好みを見つけるにも非常にわかりやすくていいですね。
見ていく中で思ったのは、単純な技巧の凄さもあれば、絵そのものの雰囲気が好きというものが割とはっきり分かれるのが面白いところだ。
撮影もOKだったので、気に入ったものはいくつか撮ってきた。
ネット上でも画像があるかわからなかったしね。
いくつか気になったものをざっとご紹介。
こちらは松崎森平さんの作品。
この人は黒をベースにステンドグラスのような絵を描いている。
金粉などもあしらわれて絢爛さもありながら非常に静かな画面でつい見入ってしまう。
都市部の道路沿いの景色を描いた作品も描いているが、その絵の風情なんかは非常にすきなんですよ。
写真に撮ると自分が写ってうまく撮れなかったので写真は撮っていないが、この人のセンスは好きだね。
画像は花の絵だけど、ガラス片なども使っているのか、キラキラしてとても綺麗でした。
こちらは斉藤詩織さんという方の絵、ちょっとタッチがピーター・ドイクを彷彿とさせる。
全体にシュールな構図の絵が多く、またタイトルも哲学的なものなので、一体なんだこれはと考えながら見ている。
ちなみにこの絵のタイトルは『100%の安心』という。
植え込みの向こうからおばはんが無表情にこちらを見ているわけだが、なんだこれはと。
この人の絵はコミカルで日常的な感じがある一方で、どこか異世界を感じさせる。
また、こちらは奥田文子さんという人の作品。
元々旅に出ては風景を描くというのをやっていたらしいが、このコロナ禍でそれができなくなってしまったため、ごく身近な風景を描くようになったのだとか。
そして、ふとその世界を旅しているような夢想をかたちにしたのがこの一連の作品らしく、よく見ると小さな人がちょこんと歩いている。
私が面白いなと思ったのが、結構私自身も風景の中にポツネンと自分がそこを歩いているようなことを考えることがよくあって、まさにこのかこの絵画に描かれている世界を無双したことがあったんだよね。
飛行機に乗ったときに、ふと見下ろした山の中腹を漠然と歩いてみたり、小さくなって水溜りを大きな湖のようにして泳いでみたり、そんなことを昔よく思い描いたものだ。
日常の中にもまだまだ気がついていない、見えていないものがたくさんあるよな、というようなことも考えられるし、冒険心があればどんな世界もたのしいぜ、という捉え方もできるかもしれない。
そしてこちらはあえて特定の絵ではなくいくつかが入るように撮ってみました。
高見基秀さんという人で、この人の作風はこれでわかると思うけど、まるでプラモデルのジオラマみたいな絵を描いており、その上で表現したいのは恐怖とのこと。
無関心の有り様をどう炙り出すかという表現ということで、ここもやはり哲学的な観点もある作品だ。
全体に黒バックで象徴だけを切り出した感じで、第一印象はデイビッド・リンチっぽいなと思ったが、それは『lost Highway』の印象だったのだよね。
他の画家の作品も面白いものがたくさんあって、現役世代のこの人たちの絵もまたチェックしてみよう。
絵画のゆくえと音楽と
若手のアーティストの、それぞれの勢いや作家性もみえて面白かったが、そこに合わせるならやはり彼らだろう。
デビュー当時はアバンギャルドでハードコア、ひたすらアングラ臭漂う存在だったのが、今では自主企画イベントも立ち上げ、さらに音楽性自体も相変わらずコアにも関わらずなぜか不思議な共感性を持った音楽を展開しているGEZANである。
ヴォーカルのマヒトは詩を書いたり、ソロでも全く違う音楽をやったり、映画を撮ったりと、表現欲求の塊みたいな人だ。
かなり乱暴な言葉や攻撃的な表現も多いけど、実はものすごく純粋な人なんだろうなということは歌詞を見ていけば感じるところだろう。
私はたまたま彼らをデビューしたばかりで知って、初期の作品は聞いていた。
それらでは、とにかく世の中全てが気に入らないと言わんばかりのトゲトゲどころではない感じだったけど、今はだいぶ違うよね。
本質は変わってないけど、敵を作る表現から周りを巻き込む表現に変わったという感じだろうか。
いずれにせよ若い奴らがどんどん時代の中心に向かっていかないと、未来なんてないからね。
まとめ
どんな世界にも権威はあって、若手中心だと反骨心を持って立ち上げたものであっても、いずれそれが権威になって反骨の対象になっていく。
それが時代の変化というものだろうし、だからこそ時代は変わるのだ。
お前のための時代ならお前が帰ろ、というのはTha Blue Herbの曲の一節だが、そうやって何か少しでもいいことが増えていけばいいよね。
若さは武器だ。
奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
洋の東西を問わず最近ではさまざまな画家の絵を観るようにしているが、そうするとやはりこの画家さんの絵はなんか好きだな、と画家として好きというのが出てくる。
既に何人かいるが、その中の1人が奥村土牛という人だ。
初めて見たのは個人展ではない企画だったと思うが、その柔らかいというか、どこか朴訥としたような絵が印象に残ったのだ。
その時は動物の絵なんかも展示されていたわけだが、正直それらについては独特なものを感じたし、感動よりはデッサンは苦手なのかな、という感想だった。
ともあれ、舞妓さんの絵だったり、有名な渦潮の絵だったりは元より、なんだかつい見入ってしまうなといつも眺めていた。
そこへきてこの個人展になるので、これは良い機会と勇んで向かったわけだ。
奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
今年は美術館の創立55周年らしく、その記念企画展ということらしい。
このひとつ前の速水御舟展に続き第二弾だそうな。
続け様に好きな画家の個人店とあり、私としても嬉しい限りだ。
【開催概要】
山種美術館では開館55周年を記念し、当館がその代表作を多数所蔵している日本画家・奥村土牛
(1889-1990)の展覧会を開催します。当館の創立者・山﨑種二(1893-1983)は、「絵は人柄である」という信念のもと、同時代の画家と直接交流しながら作品を蒐集しました。特に土牛とは親交が深く、画業初期の頃から「私は将来性のあると確信する人の絵しか買わない」と土牛本人に伝え、その才能を見出して支援し、約半世紀にわたり家族ぐるみの交際を続けました。(略)
本展では、《醍醐》や《鳴門》などの代表作をはじめ、活躍の場であった院展出品作を中心に、土牛の画業をたどります。
80歳を超えてなお「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」、「芸術に完成はあり得ない」、「どこまで大きく未完成で終わるかである」と語り、画業に精進し続けた土牛。近代・現代を代表する日本画家として、今なお人々に愛されている土牛芸術の魅力を味わっていただければ幸いです。
【開催期間】
2021年11月13日(土)~2022年1月23日(日)
出典:https://www.yamatane-museum.jp/exh/2021/okumuratogyu.html
山種美術館の創設者、山崎種二さんは元々証券マンであったらしいが、その傍らでこうした若手画家の支援を積極的に行っていたようだ。
そんな中でもこの土牛とは若い頃から目をかけていた画家の1人だったらしく、からの支え無くしてこの作品はなかっただろう。
芸術家にとって幸福な在り方だったろうな。
改めて広く彼の絵を見ていくと、冒頭に書いたようなことは失礼千万であったことはすぐにしれる。
101歳と非常に長生きながら、本当に生涯現役であり続けた作品は見応え抜群である。
個人的な見どころ
以前にも書いたが、個人にフォーカスした企画展では、その画家の歴史を振り返ることができるので、これまでと違う目線で見ることができるのが興味深いところだ。
他の作家の作品と並び立つことで際立つところもあるのはもちろんだが、この人が一体どういう世界を見ていたのか、そんなことに思い馳せながら見るのが面白いのだ。
特に、彼はただ目の前の景色を映すことよりも、より自分の内面世界で解釈したものをどう表現するかという視点で描いていたというので、それってどういうことなのかな、なんて思いながら見ていた。
こちらは琵琶の木と少女を描いたものだが、こういったモチーフは珍しいそうだ。
私も、一部を除いてあまり人物画のイメージはなく、どちらかというと風景画のイメージが強かった。
ともあれこの絵を見てみると、琵琶の木の描き方の緻密さよ。
この人の描く木のみきの感じが好きだ。
非常に写実的とも言えるし、反面ある種幻想的というか、どこか浮世離れしたようにも感じられる。
少女の顔はおよそ写実的ではないかが、素朴で絵を描くからと立たされてやや不満でもあったのかという感じもしないではない。
ある意味ではそれは対象の細かな観察と、内面を写すという観点では非常に見事な表現かもしれない。
琵琶の木だけでも見ているとなんだか不思議な気分にさせられる。
土牛は動物の絵も好んで書いていたようで、うさぎの絵も結構描いている。
こちらは後ろ姿を捉えているが、非常に可愛らしい。
私もこうした小動物は好きなんだけど、見ていて特に可愛いなと思う瞬間は、何考えているかわからないが何かに夢中になっているらしいと感じる瞬間だ。
虚空を漠然とぼーっと見ていたり、急に何かに反応したり、それでなぜか一生懸命な感じがなんとも可愛らしいと感じる。
こちらはさまざまな動物の中でも、特にそんなことを感じさせてくれるので、見ていてほっこりする。
ほかにも山羊や鹿、牛などさまざま描いているが、よくみるとそれぞれの動物の目線なんかもちょっとずつ違うので、実際に彼らが観察されている瞬間に思いお馳せると色々と想像させられる。
彼の言葉で印象的なものの一つが、絵を描く時には愛でる感覚を持って、その目で持って描く、といったようなことを言ったらしいのだけど、こうした動物に対する目線も会いに溢れているので、いずれの絵もどこかほっこりしたものを持っているのかもしれない。
それは動物を描くときだけでなく、内面化したものを描くというやり方は景色でも同様だ。
彼の代表作の一つである渦潮のこの絵も生で見ると圧倒されるものがある。
今でも名所の一つでもある鳴門の渦潮を描いているのだけど、実際に現地に赴いてスケッチなどは取ったらしいが、実際に絵画にしていく時にはアトリエに戻って記憶をもとに描いたとか。
作品自体は幾重にも絵の具を重ねて不思議な透明感や躍動感を描いている。
この画像を見るとまるで写真のようでもあるが、実際の作品は余裕で写真を超えてくる。
ちなみに、今回の展示ではデッサンも展示されているんだけど、こちらの方がよほど写実的ではある。
興味深いのは、実際の作品にする時には実は簡略化されたところもある一方で、より誇張(というとちょっと違うけど)されているところもあり、それが見事に表現として凄みを生んでいるのだ。
これが絵画における再構築か、と言うことも感じ取れる貴重な展示だと思う。
同じく私が思わず見上げてしまったのが那智の滝を描いたこちら。
間近で見ても距離をおいてみてもそれぞれに趣が違うので、しばらく眺めてしまった。
ぱっと見非常にシンプルに見えるが、雄大さのようなものが見れば見るほど感じられる。
この人の絵は見ていると本当に不思議な印象がするものが多く、やたら親しみを感じさせる一方で対象をそのまま描く以上に巨大さというか雄大さというか、そういうものを感じさせるのだ。
この頃はまさに印象派やセザンヌの影響なども受けて研究していたらしいが、なるほど確かにと思える表現が使われている。
その他にも展示されている姫路城を描いた「城」という作品も、構図的にやや珍しい感じのするアングルで描いているが、お城の聳え立つ感じが絶妙に表現されている。
そのほか山の絵においては完全にセザンヌを意識したようなものもあり、彼の画家としての探究心をよくよく感じられる。
ぜひ実物たちを見てほしい。
人物を描いたものにはこんな作品も。
あんまりいい画像がなかったのだけど、こちらは先にも描いた舞妓さんの絵だ。
まだ若いというよりも幼さのあるくらいの顔立ちだが、何より着物が実に綺麗。
深い黒の着物に、金色のツルがあしらわれているがらと、大形なくらいの帯も舞妓さんの華やかさの表現にもなっているようだ。
私が土牛の絵で最初に印象的だったのはこの絵だった。
なぜかわからないが妙にこの黒色に見入ってしまった。
今回はこれ以外にもバレリーナや力士を描いているものも展示されているが、いずれも写実性ではない面白みのある作品で必見である。
最後は代表作、季節外れだがこちらを。
京都の醍醐寺というところに植樹されている桜の木である。
あの太閤秀吉もめでたと言われている由緒ある桜らしいが、今では土牛の桜と呼ばれているとか。
桜の花も油絵のような量感たっぷりの描き方がされており、そしてこの幹ね。
この人は桜が好きだったんだろうなということも感じるけど、絶妙に寸尺がデフォルメされているようにも感じるが、決してこじんまりとはいない。
きっと画面の外にまで広がっていることは想像せられるところだ。
他の絵もそうだが、この人は描くときに、単に写真のように風景を区切るのではなくて、自分が見た時に本当に驚いたり感動したりした時の風景を絵に落とし込んだのではないだろうか。
だから素朴さの中に雄大さを感じたり、終始温かいものを感じるのではないだろうか、などと思えてしまう。
彼は100歳間近になった時にも、「今新しいことを試しており、なんだかうまくいきそうだ」と、その創作意欲は衰えを知らず、生涯絵を描きつづけたそうだ。
奥村土牛と音楽と
そんな土牛と音楽を考えてみると、どうしてもこの人が出てきてしまった。
英国が誇る生きる伝説、King Crimsonである。
ロックファンの間では、あのビートルズのラストアルバムを1位から引きずり落として新しい時代の幕開けを飾ったともいわれている。
音楽ジャンルとしてはプログレッシブ・ロックなどと呼ばれ、今では当たり前のようにジャンルをクロスオーバーしたものは存在しているが、ときは69年だ。
その時すでにロック、メタル、クラシック、ジャズなどさまざまなジャンルを取り入れた音楽と、世紀末感漂う詩を以て一世を風靡したのだ。
しかし、何がすごいって未だに現役バリバリで、このバンドの実質的な核であるRobert Flippというギタリストはすでに80間近、にも関わらず現在絶賛来日ツアー中で、12月上旬まで日本であちこち回っている。
ライブでは過去の曲をそのまま演奏するのではなく、バンドの編成も変わっているしメンバーも変わっている。
もちろん譜面通りのところはあるにせよ、間の即興パートは毎回変わるし、キャリアも長いから曲数はたくさんあるにせよ、ライブごとにセットリストは変えてくるし、だからファンは全公演に足を運びたくなる。
もっと驚きなのは、このコロナ禍をきっかけに毎週SNSで奥さんと一緒に音楽動画を上げており、本当にこの人の中にはずっと音楽がながれていて、しかも自分の中でこうしてみたいああしてみたいと膨らんでしょうがないんだろうなと思うわけだ。
多分生きているうちはずっとそんな感じなんだろうなと思うと羨ましい気持ちにもなる。
土牛も生涯現役、常に新しい表現を求めていたというが、きっとマインドは同じなんじゃないだろうか。
どっちもかっこいいジジイである。
まとめ
これぞ天命とばかり芸術に身を捧げるような人はいつの時代にも一定数存在している。
幸運な人は、それを応援して支えてくれ流人がいることで、その天命を全うできるのだろう。
果たして自分にとってまさに生きる時間とイコールな存在なんてものはあるだろうかと考えるといささか寂しい気持ちにもあるが、ともあれこうして楽しんでいる人を見るのはなんだか嬉しい気持ちになる。
山崎種二さんにとっての天命は、土牛をはじめ有望な画家を1人でも多くに日の目をみてもらい、将来にわたって作品が残ることを支援することだったのかもしれない。
それに見事に答えてみせる素晴らしい絵を残したのが土牛だったり御舟だったりといったものたちだったのだろう。
私はそんな彼らの残してくれた素晴らしい作品を見て、今の世界を少しでも明るい目で見る心を養うだけである。