鉄道と美術の150年 −時代の変化の渦中
現代においてはただの芸術の一つとして、ある種現実社会から切り離されたようなところにあると認識されているのかな、という絵画だが、かつては新聞のように最新情報を伝えるメディアだったり、教養を示すものだったり、あるいは神の言葉を伝える媒介だったりと、色々な役割があった。
時代の変化とともにその立ち位置を変えてきたのは別に絵画に限った話ではないけど、そういう社会的な文脈と紐づけて見ることは一つ面白い視点だといつも思う。
東京駅に直通の東京ステーションギャラリーで開かれている「鉄道と美術」という企画展が面白くて、そんな社会的な意味合いにおける絵画や芸術の立ち位置というのが見せられていてよかったね。
いつだって時代の変わり目、何かが変わりゆくその最中はワクワクするものだけど、そんなムードが感じられる時代の絵画は見ていても面白い。
他方でそこから先に待ち受ける不確定さに対する不安感みたいなものも孕んでいるので、その空気感みたいなものが私は大好きだ。
鉄道と美術の150年
そんなわけで、鉄道をモチーフにした絵画を中心に当時の時代背景なんかを紹介する企画展である。
時代的には1900年くらいから終戦後くらいまでの期間なので、まさに近代化が進む最中の時代のポートレートといったところか。
【開催概要】
今年150周年を迎える日本の鉄道は、明治5(1872)年に新橋―横浜間で開業しました。奇しくも「美術」という語が初めて登場したのも明治5年のことです。(*)鉄道と美術は、日本の近代化の流れに寄り添い、また時にはそのうねりに翻弄されながら、150年の時を歩み続けてきました。
この展覧会では、鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかにしていきます。
日本全国約40カ所から集めた、「鉄道美術」の名作、話題作、問題作約150件が一堂にそろう、東京ステーションギャラリー渾身の展覧会です。【開催期間】
2022年10月8日(土) - 2023年1月9日(月・祝)
出典:鉄道と美術の150年
鉄道自体が150年目ということで、いかにも東京駅併設の施設らしい企画である。
ここは結構いい展示しているんですよ。
個人的見どころ
序盤は浮世絵から展示は始まる。
まだ浮世絵の時代に既に鉄道があったのか、なんてちょっと不思議に思ってしまう。
こちらは当代を代表する浮世絵師、歌川一門の作品だ。
蒸気機関車がまさに入ってきたその時を描いている。
既に服装も洋服の人ばかりだ。
浮世絵らしく、非常に派手な色彩も手伝って、新時代へのワクワク感みたいなものが伝わってくるような思いだ。
こちらは光線画と呼ばれた小林清親の作品。
従来の浮世絵に西洋絵画的な画法を盛り込んだ新世代の浮世絵で、新版画の走りといってよい作家だろう。
私も好きなんだけど、非常に小洒落た作品である。
浮世絵自体が新聞のように、世の中の最新情報を伝えるような役割があったというので、この頃の作品は新時代の夜明けという空気が満ちているんですよね。
しかし、時間が経てば徐々に現実的な側面もフォーカスされ始めるのはなんでも同じだ。
こちらは汽車に乗る人たちを描いた作品。
急に親近感が湧くというか、根本的には今と対して変わってねぇなと感じる。
床にみかん?かなんか落ちているし。
こちらは鉄道をモチーフにした双六で、要するに桃鉄の元祖だ。
これで遊びながら、市井の人は遠くの彼の地に思いを馳せたのだろうか。
徐々に街の景観としても当たり前のものになっていく鉄道、さまざまな画家が当時の最先端を描いたようだ。
今や電線に沿って走る電車の風景など日本的と言っていいくらいかもしれないが、当時は新しい時代の象徴に移ったんだろうな。
さまざまな画家がそれを含んだ風景を描いている。
こちらは当時の新宿駅の喧騒を描いた作品。
後の時代にも度々登場するし、現代社会の一つの象徴のような風景でもある人で溢れる電車、駅の風景は、この時からすでの存在していたらしい。
日本人ってやつの気質は昔から変わらないらしいね。
しかし、時間が経てば徐々に特別も普通になっていく。
特別が普通に移り変わっていく瞬間のドキュメントは、なんだか寂しい気持ちにもなる。
そして時代は戦争の時代に入っていくわけだが、その際のプロパガンダだったりに繋がっていく様はなんだか複雑な気持ちにさせられる。
こちらは駅構内で、群衆に向けて演説をする若者の姿で、資本主義批判の群勢のようだ。
当時は共産主義が一つの理想としてまだ信じられていた時代だったのだろう。
もっとも、今に至れば資本主義も帰路に立たされている時代になっているわけで、この世に”本当の”正解なんてものは存在しないよな、なんて思ってしまう。
こちらは写真作品だが、日中戦争へ出兵する兵士を送り出す催しだったようだ。
当時、こうした俯瞰写真は禁止されていたらしいが、この石川さんが軍部にいたために撮影できたものだそうだ。
彼は何を思ってこの風景を写したんだろうか。
これから起こる新しい希望に胸をときめかせていたような時代と地続きで見ていると、なんだか複雑な気持ちにさせられる。
そして世界は戦争に突入していくのだけど、なんかすごく複雑な気持ちにさせれる。
別に鉄道の存在がそれを招いたわけではないけど、急速な近代化の一つの象徴としてそこにあったのは確かで、生活様式から服装に至るまで西洋化していく中で、何か心持ちが変わったところがあったのかな、なんて思ってしまう。
とはいえ、市井の様子はといえば日常を過ごしていたようだ。
日中戦争の真っ只中だったらしいが、戦地に赴かない人々は日常を引き続き過ごしていたとな。
当時もダイヤなんてものが存在したのかはわからないし、どれだけ正確だったのかはわからないが、今の時代とつい対照して考える時、変わらず淡々と走り続ける電車というのは、なんともいえない存在感を持っているように思う。
そして時は流れて第2次世界大戦に突入、日本は原爆を喰らい敗戦国となったわけだが、大きなダメージを負っても市井の人々は存外たくましかったようだ。
こちらは敗戦直後の池袋駅の東口の風景だ。
豊島区の公式ページにもこの絵画の画像が紹介されているが、今とは全く異なる風景ではあるが、見るとブラウスを小綺麗に着こなした女性も歩いていて、あんまり危機感みたいなものが感じられない。
周りを見ればスラムみたいな有様だが、妙に淡々として映るのが面白い。
それから高度経済成長期に突入していく中でも、何かの象徴であった鉄道。
こちらも写真作品、他にも『過密』という作品もあるが、撮影された1964年当時から満員電車は社会問題だったそうだ。
魚眼レンズで撮影されたこの写真、先週の風景ですといって違和感があるのは服装くらいではないだろうか。
日本人ってやつはこういうのが好きなんだろうか。
しかし、真ん中にいるのは女性というところも、実は60年くらい前の日本と今ってそんなに変わってないのかもしれないなんて思ってしまうよな。
鉄道は蒸気機関車から電車に変わりつつある最中、ブーツも元は軍靴であるわけで、どちらも時代の中で無用の長物となりつつあるもの同士を組み合わせて何を訴えようとしたのか。
絵的にはマグリットを思わせるようなもので、電車の運転手がラバーズのようではないか。
こちらは山手線をジャックしてのアートパフォーマンスの一場面。
顔を白塗りにしたパフォーマーが山手線の吊革に謎のオブジェをぶら下げてみたり、こうしてそのオブジェを舐めてみたりと、前衛的なことをやっている。
狂気じみた場面だが、いわゆる表現欲求みたいなものが迸っている感じがして、この写真が特に気になってしまった。
当時の人たちには奇異に移ったに違いないだろう、私の目にも奇異に移っているんだけど、堪え切れない何かを抱えている感じがなんともいいよね。
アートの存在意義を物語っているようだ。
この展覧会でも一際存在感を放っていたのがこの作品。
セザンヌやゴッホの作品も散りばめつつ、なんだかよくわからないエネルギーを放ちまくっているが、一方でどこか冷めているような印象もあるのがなんともいえない。
真ん中にいる少年は作者自身で、その影響元だったりを書き散らしたそうだ。
デカデカと描かれたラクダの表情も、どこまで本気なのか冗談なのかなんて思ってしまう。
こちらは鉄道の歴史は関係ない、鉄道を描いた作品の一つとして描かれたものではあるが、個人の歴史においても当たり前の風景に落とし込まれた時代の絵画である。
ここまでくると、最近描かれた絵だと言われても違和感はないだろう。
実際描かれたのも92年なので、つい最近である。
といっても、この風景に共感だったり感じいるところがあるのは、おそらく都会で暮らしいる人だろう。
私は大学入学に合わせて関東に来たけど、それまで電車なんてほとんど乗ったことがなかった。
移動が車か自転車、私の日常に電車はなかったからな。
それはともかく、こうして人が溢れているホームも、電車が来て発車した後は急に人がいなくなり閑散とする様は、なんか不思議な感じがしたものだ。
そんな風景を描いた絵画な訳だが、かつての希望を描いた世界でもないし、プロパガンダでもない、ただの日常の中のささやかな違和感みたいなものとして描かれている。
当たり前の風景は、当たり前だと思いながらもふとのその当たり前自体に違和感が生まれる瞬間があって、そんな瞬間を切り取ったような作品である。
特に都会に暮らしていると当たり前の風景である鉄道、こうして考えてみると今に至るも都会の象徴の一つなのかなと思う。
その意味で、日本の中でも実は極ローカルなトピックなんだろうし、だからこそ東京駅の中の会場で見られるというのもいいよね。
この会場は、出口が改札から出た広場を見下ろすようなロケーションになるんだけど、なんとなく見慣れた風景がちょっと違って見えるような思いがするところに、アートの力を感じる。
ざっと上げた画像以外にも、シベリアに拘留されていた香月康雄さんの絵も展示されていたり、絵画だけでなく写真展示もあることで、いろんなパースペクティブがあって面白かったですね。
時代の変わり目のワクワク感と不安感、そして時代が過ぎた時の虚無感などが一連でみられるようないい展示でした。
鉄道と美術の150年と音楽と
さて、そんな鉄道の歴史を振り返る展示会にマッチする音楽って何かと思うと、浮かんだのはこれだった。
鬱バンドとしての立ち位置を確立して久しいバンドだと思うが、彼らは元々Sex Pistolsをはじめとするパンクの洗礼を受けてバンドをはじめた若者だった。
素人目にも演奏は下手くそなんだけど、絵も言われぬエネルギーと魔法が彼らの音楽にはあった。
シングル曲は割と出しているが、アルバムとしては実質2枚しか出しておらず、しかも2ndのリリース前にヴォーカルであり作詞を手がけていたイアンが自殺してしまったことですっかりいわくが着いたバンドだ。
そんな事件もあったせいで特に2ndは歴史的鬱アルバムとして名高いが、1stアルバムには確かに希望もあった。
アルバムの1曲目を飾る”Disorder”も、歌詞は見事なJD世界だが、希望に溢れたような感じだ確かにあるんですよね。
しかし、間も無く絶望を迎えて徐々に息苦しさに変わっていき、閉塞感の中で大きな事件でどん底に落ちていく。
それでも、その後はNew Orderとしてそれ以上の成功と名声も手に入れていく流れはちょっとリンクしているように感じたのでした。
曲単体というよりはバンドの歴史ともリンクするような紐付けなんだけど、急激に変わっていく風景がバンドの激動とかぶってしまう。
近代化という意味合いでも、展示を見ながらずっとこの音楽が流れていた。
まとめ
1800年代末から1900年代の半ばというのは、世界的に激動の時代である。
絵画の発展という意味でも、印象派の登場や、西洋と東洋の邂逅など、さまざまな動きが生まれた時代なのである。
私は印象派の絵が好きで、当初はルノワールのようなわかりやすくキラキラした絵が好きだったけど、最近はロートレックの描くような煌びやかでありながらどこか影のある世界に妙に惹かれてしまう。
新しい世界に希望を持つ一方で、変わることで失われるものや不確実なものが増えていくわけで、必ずしもポジティブなばかりではない。
キラキラした中に一抹の黒い不安を孕んでいるような空気感が、なんとも魅力的に移ってしまう。
今という時代も、全世界的なコロナの影響に端を発して、ロシアとウクライナの戦争が起こったり、仕事やコミュニケーションのあり方も変わってきている。
明らかに時代の変化の最中なんだろうなと感じるわけだが、そのワクワク感と同時に不安感も大きくのしかかっている。
その感じが上記のような時代とリンクして感じられるのですね。
結局どうなるかはもう少し後になってみないとわからないわけだけど、私は今のこの混沌とした感じが嫌いじゃない。
果たして自分が生きている間に一定の決着が見られるのかどうかもわからないが、つまるところ必死に今この瞬間をなんとかしていくしかないのは、いつの時代も同じなのかもしれない。