美術館巡りと音楽と

主に東京近辺の美術館、企画展巡りの徒然を。できればそこに添える音楽を。

佐伯祐三 –自画像としての風景

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日本人の画家の企画展も最近は足を運ぶようにしているが、ほとんどの場合めちゃくちゃいい。

 

青木繁のように早逝した画家も少なくないし、香月泰男のように戦争を経ても生き残り絵を描き続けられた画家もいる。

 

伝統的な慣習から解き放たれ始め、西洋絵画の影響を受けつつ、中には海外に活路を見出して成功した画家もで始める頃だ。

 

激動といえば一言で片付くが、当人たちはさまざまの紆余曲折を経て自らの表現を模索していたわけで、そういうことが垣間見えるこの時代の画家というのは須く魅力的である。

 

この佐伯祐三さんも1920年代頃を中心に活動しており、他の画家同様フランスで様々なインスピレーションを得て、自らの作風を磨いていった画家の1人だ。

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しかし、志半ばで当時はまだ不治の病だった結核に罹り、僅か30才でこの世を去ってしまうのだが、特に晩年は精力的で、1日1作以上のペースで描き続けたとか。

 

彼の画家人生で絶大な影響を与えた出来事が、彼自身が憧れていたヴラマンクに会った際、その絵を見せたところ偉くダメ出しされたということであるそうだ。

 

憧れの人にようやく出会えたら、自身の作品をボコボコにこき下ろされて、さぞショックであったろう。

 

その経験を色濃く反映しているのがこちらの絵だ。

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こちらは自画像で、構図はアンリ・ルソーのようでもあるが、注目すべきはかおである。

 

一度描いたものを削り取るような形になっており、いかに衝撃的な出来事だったかを物語っているようだ。

 

ちなみにこちらの絵は、コアなロックファンには馴染み深いもので、日本のオルタナの雄、Eastern Youthのアルバムジャケットに使われているのである。

 

しかし、彼はその経験を機によりオリジナリティを獲得していくに至るわけだが、画家としての評価と引き換えに彼の絵はどこか苦悩に満ちているようにも見える。

 

そんな彼の画業を辿った展覧会で、結論から言うとめちゃくちゃ良かった。

 

佐伯祐三 –自画像としての風景

【開催概要】

およそ100年前、「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に生き、短くも鮮烈な生涯を終えた画家、佐伯祐三(1898-1928)。1924年に初めてパリに渡ってからわずか4年余りの本格的画業の中で、都市の風景を題材とする独自の様式に達しました。特に、一時帰国を挟んだ後の2回目の滞仏期に到達した、繊細で踊るような線描による一連のパリ風景は、画家の代名詞とされ、その比類ない個性は今でも多くの人を魅了し続けています。(中略)

本展では、佐伯が描いた「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に注目し、画家が自らの表現を獲得する過程に迫ります。(中略)15年ぶりの回顧展となる本展は、佐伯芸術の魅力を再発見する機会となることでしょう。

 

【開催期間】

2023年1月21日(土)~4月2日(日)

出典:特別展「佐伯祐三-自画像としての風景」:【東京会場】2023年1月21日(土)~4月2日(日) 東京ステーションギャラリー/【大阪会場】2023年4月15日(土)~6月25日(日) 大阪中之島美術館

 

 

この当時の日本人画家は、海外の画家の影響を色濃く受けているため、時期によっていかにもそれっぽいというものがあるが、徐々に自分の中で消化していく様がみてとれるのも面白いところだ。

 

個人的見どころ

展示の冒頭では多くの自画像が展示されている。

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写真を見ても結構ハンサムで、伊達男といった佇まいなのだが、そんな自分をわかっているような自信に溢れたような表情が印象的である。

 

絵のタッチは岸田劉生なんかに近しいものを感じるように思う。

 

キャリア初期は風景画をよく描いていたそうで、特に住んでいた下落合付近の風景を描いている。

「下落合風景」

同じタイトルの作品がいくつかあるのだけど、中でも個人的に目に留まったのがこちら。

 

絶妙に歪んでいるというか、ちょっと歪なんである。

 

彼の絵はそういう構造になっていることが多くて、なぜそんなふうに描いたのかが気になるのであるが、後期でもその関心が顕著になってくるが、幾何学的なバランスを彼なりに追求していたらしく、それゆえ直線的な構図の中に全体としては微妙に歪んで感じるところがあるのかもしれない。

 

また彼も雪景色を描いている。

「雪景色」

ちょっと画質の問題で実際の絵と印象が違ってしまうが、ともあれ彼の描く雪景色は、っ白の美しいものではなくて、土が混じった少し時間が経った後の雪だ。

 

でも汚いなというよりは、ただ写実的なだけなのだろう。

 

彼の絵は常に実直な印象があって、とにかく何かを必死に描こうとしているように感じるのである。

 

ちなみに描かれているのは雪遊びに興じる人たちだそうで、よく見るとスキーを履いている人もある。

 

私はなぜかピーター・ドイクを思い出したのだけど、彼はまさに現代の現役作家だ。

 

何か通じるものがあるのかな、と勝手に思ってしまった。

 

「停船」

こちらも連作の一つ、同じタイトルの作品があるのだけど、それぞれに何かを試している感じが興味深い。

 

おそらく同じ船を描いているであろうにも関わらず、帆の数なんかを変えたり、波の具合が違ったりと変化をつけている。

 

黄金比という言葉があるように、彼なりにこれがというポイントを探っていたんだろう。

 

彼はしばしば同じモチーフを繰り返し描いているが、その差分を見るのが面白い。

 

 

その観点では、街に貼られている広告は彼の関心を大いに引いたようだ。

「広告のある門」

今でもあちこちに掲示は貼られているが、その雑然とした様が、彼の関心を強く引いたのだろう。

 

彼は街の風景をよく描いているのだけだ、とりわけ幾何学的な構造なんかに関心が高かったようで、シンメトリーな構図でよく描いており、また同じモチーフを繰り返し描いていたそうな。

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こちらはフランスの靴屋を描いたものだが、同じ構図でいくつか描いており、中に店主が描かれているものもあり、いくつかのバリエーションがある。

 

中の暗さと表の壁の白さのコントラストや、店先に並べられた靴の置き方など、構図的にも絶妙にバランスが取れている。

 

また、真ん中あたりが殊更に明るく、周辺はやや色が暗めになっているのも、引きで見るといい対比である。

 

こうして同じ構図を描くことで、美しく見えるバランスを探っていたのだろう。

 

絵画の構築性というか、どんなこと考えているかみたいなものを見て取れるように思うので、非常に興味深く面白いところである。

 

この頃はユトリロセザンヌなどさまざまな画家の影響を割とわかりやすい形で示しているので、それを見るのも面白い。

 

 

同じ構図というわけではないが、街を描いた中で私がつい見入ってしまったのがこちら。

「カミオン(運送屋)」

フランスの街の風景を描いた中の一つだが、私はこの絵がなんか知らんが妙に目に留まって、しばらく見てしまった。

 

実際の絵はもっとグレイな色調で淡々とした中に、赤い衣服の女性が中心にいるというものだ。

 

彼の絵にはこうしたオシャレな女性が必ずと言っていいほど登場しているが、初期から通底する彼なりの美観みたいなものがそれを通じて見えてくるようで面白い。

 

 

こうしてある種ドライなモチーフを描く一方で、数は多くなかったようだが人物画も描いている。

 

そんな作品の中で特筆すべきはやはりこれだろう。

「彌智子像」

一人娘、彌智子を描いたものだ。

 

当時フランスへも奥さんの米子さんと一緒に行ったのだけど、この子は祐三は結核で亡くなったわずか2週間後に同じく結核で幼くして亡くなってしまったという。

 

奥さんの気持ちたるや、想像に絶する。

 

私には嫁も子供もいないけど、もし仮にいて、自分より先に嫁や子が逝ってしまうような自体があれば、立ち直れる自信がない。

 

旦那にも子供にも先立たれて、それでも後年自身も画家として立身したというから、強い女だったのだろう。

 

ちなみにフランス滞在中は、彼の同僚にも可愛がられていたというが、やっぱり子供が早くに亡くなる社会というのは、よくないよね。

 

 

彼はフランスで体調を悪くするが、その環境でもなお絵を描きつづけた。

 

その中の一つは彼の最高傑作の一つと言われているようだが、それがこの作品だ。

「煉瓦」

彼の絵は青い空は描かれているのは稀だし、まるで童話のような鮮やかな色使いは彼の画業で極めて稀な作例ではないだろうか。

 

この頃は病に冒されて、体力的にもかなりしんどい状態だったそうだが、それでも何かを掴むために描き続けたようだ。

 

徐々に外に出ることが叶わなくなると、配達に来る配達員や、モデル志望の子を描いていたようだ。

 

それでも病状は止まることなく、彼は30年という短い生涯を閉じたのであった。

 

佐伯祐三と音楽と

もはやこれはいうまでもない。


www.youtube.com

彼の絵をジャケットにも用いたEastern Youth、そのアルバムに収録されている彼らの代表曲の一つ”夏の日の午後”だ。

 

冒頭にかの肖像画を見せられたので、見ている間ずっとこの曲が頭を流れていた。

 

「神様あなたは、なんでも知っていて、心悪き人を打ち負かすだろう」と始まるこの曲は、しかしそれでも自身の意思とか想いの間で思い悩む様を絵がいるような曲である。

 

そんな世界観と佐伯の画業はリンクしているように思うのだ。

 

まあ、イースタンが選んだ理由という方が正しいんだろうけど、実際どうだったのだろうか。

 

 

まとめ

手塚治虫も、やりたいことに対して人生の時間が足りないと言って亡くなったという。

 

芸術家である以上、描きたいものがようやく見え始めた時に死期が迫るなど、くやまれてしかたなかっただろう。

 

セザンヌヴラマンクゴッホユトリロなど、さまざまな画家の影響を受けながら、独自の作風に落とし込んでいきながら、自分のスタイルに作り上げていった彼が、もし病気にかからずに絵を描き続けていたら、どんな絵を描いただろうか。

 

速水御舟も早逝してしまったが、才能も何もあった人たちが志半ばで亡くなってしまうというのは、やっぱり残念なことである。

 

でも芸術として没後100年経っても語られる存在であることは、少しでも何かの救いになれば幸いだ。