奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
洋の東西を問わず最近ではさまざまな画家の絵を観るようにしているが、そうするとやはりこの画家さんの絵はなんか好きだな、と画家として好きというのが出てくる。
既に何人かいるが、その中の1人が奥村土牛という人だ。
初めて見たのは個人展ではない企画だったと思うが、その柔らかいというか、どこか朴訥としたような絵が印象に残ったのだ。
その時は動物の絵なんかも展示されていたわけだが、正直それらについては独特なものを感じたし、感動よりはデッサンは苦手なのかな、という感想だった。
ともあれ、舞妓さんの絵だったり、有名な渦潮の絵だったりは元より、なんだかつい見入ってしまうなといつも眺めていた。
そこへきてこの個人展になるので、これは良い機会と勇んで向かったわけだ。
奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
今年は美術館の創立55周年らしく、その記念企画展ということらしい。
このひとつ前の速水御舟展に続き第二弾だそうな。
続け様に好きな画家の個人店とあり、私としても嬉しい限りだ。
【開催概要】
山種美術館では開館55周年を記念し、当館がその代表作を多数所蔵している日本画家・奥村土牛
(1889-1990)の展覧会を開催します。当館の創立者・山﨑種二(1893-1983)は、「絵は人柄である」という信念のもと、同時代の画家と直接交流しながら作品を蒐集しました。特に土牛とは親交が深く、画業初期の頃から「私は将来性のあると確信する人の絵しか買わない」と土牛本人に伝え、その才能を見出して支援し、約半世紀にわたり家族ぐるみの交際を続けました。(略)
本展では、《醍醐》や《鳴門》などの代表作をはじめ、活躍の場であった院展出品作を中心に、土牛の画業をたどります。
80歳を超えてなお「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」、「芸術に完成はあり得ない」、「どこまで大きく未完成で終わるかである」と語り、画業に精進し続けた土牛。近代・現代を代表する日本画家として、今なお人々に愛されている土牛芸術の魅力を味わっていただければ幸いです。
【開催期間】
2021年11月13日(土)~2022年1月23日(日)
出典:https://www.yamatane-museum.jp/exh/2021/okumuratogyu.html
山種美術館の創設者、山崎種二さんは元々証券マンであったらしいが、その傍らでこうした若手画家の支援を積極的に行っていたようだ。
そんな中でもこの土牛とは若い頃から目をかけていた画家の1人だったらしく、からの支え無くしてこの作品はなかっただろう。
芸術家にとって幸福な在り方だったろうな。
改めて広く彼の絵を見ていくと、冒頭に書いたようなことは失礼千万であったことはすぐにしれる。
101歳と非常に長生きながら、本当に生涯現役であり続けた作品は見応え抜群である。
個人的な見どころ
以前にも書いたが、個人にフォーカスした企画展では、その画家の歴史を振り返ることができるので、これまでと違う目線で見ることができるのが興味深いところだ。
他の作家の作品と並び立つことで際立つところもあるのはもちろんだが、この人が一体どういう世界を見ていたのか、そんなことに思い馳せながら見るのが面白いのだ。
特に、彼はただ目の前の景色を映すことよりも、より自分の内面世界で解釈したものをどう表現するかという視点で描いていたというので、それってどういうことなのかな、なんて思いながら見ていた。
こちらは琵琶の木と少女を描いたものだが、こういったモチーフは珍しいそうだ。
私も、一部を除いてあまり人物画のイメージはなく、どちらかというと風景画のイメージが強かった。
ともあれこの絵を見てみると、琵琶の木の描き方の緻密さよ。
この人の描く木のみきの感じが好きだ。
非常に写実的とも言えるし、反面ある種幻想的というか、どこか浮世離れしたようにも感じられる。
少女の顔はおよそ写実的ではないかが、素朴で絵を描くからと立たされてやや不満でもあったのかという感じもしないではない。
ある意味ではそれは対象の細かな観察と、内面を写すという観点では非常に見事な表現かもしれない。
琵琶の木だけでも見ているとなんだか不思議な気分にさせられる。
土牛は動物の絵も好んで書いていたようで、うさぎの絵も結構描いている。
こちらは後ろ姿を捉えているが、非常に可愛らしい。
私もこうした小動物は好きなんだけど、見ていて特に可愛いなと思う瞬間は、何考えているかわからないが何かに夢中になっているらしいと感じる瞬間だ。
虚空を漠然とぼーっと見ていたり、急に何かに反応したり、それでなぜか一生懸命な感じがなんとも可愛らしいと感じる。
こちらはさまざまな動物の中でも、特にそんなことを感じさせてくれるので、見ていてほっこりする。
ほかにも山羊や鹿、牛などさまざま描いているが、よくみるとそれぞれの動物の目線なんかもちょっとずつ違うので、実際に彼らが観察されている瞬間に思いお馳せると色々と想像させられる。
彼の言葉で印象的なものの一つが、絵を描く時には愛でる感覚を持って、その目で持って描く、といったようなことを言ったらしいのだけど、こうした動物に対する目線も会いに溢れているので、いずれの絵もどこかほっこりしたものを持っているのかもしれない。
それは動物を描くときだけでなく、内面化したものを描くというやり方は景色でも同様だ。
彼の代表作の一つである渦潮のこの絵も生で見ると圧倒されるものがある。
今でも名所の一つでもある鳴門の渦潮を描いているのだけど、実際に現地に赴いてスケッチなどは取ったらしいが、実際に絵画にしていく時にはアトリエに戻って記憶をもとに描いたとか。
作品自体は幾重にも絵の具を重ねて不思議な透明感や躍動感を描いている。
この画像を見るとまるで写真のようでもあるが、実際の作品は余裕で写真を超えてくる。
ちなみに、今回の展示ではデッサンも展示されているんだけど、こちらの方がよほど写実的ではある。
興味深いのは、実際の作品にする時には実は簡略化されたところもある一方で、より誇張(というとちょっと違うけど)されているところもあり、それが見事に表現として凄みを生んでいるのだ。
これが絵画における再構築か、と言うことも感じ取れる貴重な展示だと思う。
同じく私が思わず見上げてしまったのが那智の滝を描いたこちら。
間近で見ても距離をおいてみてもそれぞれに趣が違うので、しばらく眺めてしまった。
ぱっと見非常にシンプルに見えるが、雄大さのようなものが見れば見るほど感じられる。
この人の絵は見ていると本当に不思議な印象がするものが多く、やたら親しみを感じさせる一方で対象をそのまま描く以上に巨大さというか雄大さというか、そういうものを感じさせるのだ。
この頃はまさに印象派やセザンヌの影響なども受けて研究していたらしいが、なるほど確かにと思える表現が使われている。
その他にも展示されている姫路城を描いた「城」という作品も、構図的にやや珍しい感じのするアングルで描いているが、お城の聳え立つ感じが絶妙に表現されている。
そのほか山の絵においては完全にセザンヌを意識したようなものもあり、彼の画家としての探究心をよくよく感じられる。
ぜひ実物たちを見てほしい。
人物を描いたものにはこんな作品も。
あんまりいい画像がなかったのだけど、こちらは先にも描いた舞妓さんの絵だ。
まだ若いというよりも幼さのあるくらいの顔立ちだが、何より着物が実に綺麗。
深い黒の着物に、金色のツルがあしらわれているがらと、大形なくらいの帯も舞妓さんの華やかさの表現にもなっているようだ。
私が土牛の絵で最初に印象的だったのはこの絵だった。
なぜかわからないが妙にこの黒色に見入ってしまった。
今回はこれ以外にもバレリーナや力士を描いているものも展示されているが、いずれも写実性ではない面白みのある作品で必見である。
最後は代表作、季節外れだがこちらを。
京都の醍醐寺というところに植樹されている桜の木である。
あの太閤秀吉もめでたと言われている由緒ある桜らしいが、今では土牛の桜と呼ばれているとか。
桜の花も油絵のような量感たっぷりの描き方がされており、そしてこの幹ね。
この人は桜が好きだったんだろうなということも感じるけど、絶妙に寸尺がデフォルメされているようにも感じるが、決してこじんまりとはいない。
きっと画面の外にまで広がっていることは想像せられるところだ。
他の絵もそうだが、この人は描くときに、単に写真のように風景を区切るのではなくて、自分が見た時に本当に驚いたり感動したりした時の風景を絵に落とし込んだのではないだろうか。
だから素朴さの中に雄大さを感じたり、終始温かいものを感じるのではないだろうか、などと思えてしまう。
彼は100歳間近になった時にも、「今新しいことを試しており、なんだかうまくいきそうだ」と、その創作意欲は衰えを知らず、生涯絵を描きつづけたそうだ。
奥村土牛と音楽と
そんな土牛と音楽を考えてみると、どうしてもこの人が出てきてしまった。
英国が誇る生きる伝説、King Crimsonである。
ロックファンの間では、あのビートルズのラストアルバムを1位から引きずり落として新しい時代の幕開けを飾ったともいわれている。
音楽ジャンルとしてはプログレッシブ・ロックなどと呼ばれ、今では当たり前のようにジャンルをクロスオーバーしたものは存在しているが、ときは69年だ。
その時すでにロック、メタル、クラシック、ジャズなどさまざまなジャンルを取り入れた音楽と、世紀末感漂う詩を以て一世を風靡したのだ。
しかし、何がすごいって未だに現役バリバリで、このバンドの実質的な核であるRobert Flippというギタリストはすでに80間近、にも関わらず現在絶賛来日ツアー中で、12月上旬まで日本であちこち回っている。
ライブでは過去の曲をそのまま演奏するのではなく、バンドの編成も変わっているしメンバーも変わっている。
もちろん譜面通りのところはあるにせよ、間の即興パートは毎回変わるし、キャリアも長いから曲数はたくさんあるにせよ、ライブごとにセットリストは変えてくるし、だからファンは全公演に足を運びたくなる。
もっと驚きなのは、このコロナ禍をきっかけに毎週SNSで奥さんと一緒に音楽動画を上げており、本当にこの人の中にはずっと音楽がながれていて、しかも自分の中でこうしてみたいああしてみたいと膨らんでしょうがないんだろうなと思うわけだ。
多分生きているうちはずっとそんな感じなんだろうなと思うと羨ましい気持ちにもなる。
土牛も生涯現役、常に新しい表現を求めていたというが、きっとマインドは同じなんじゃないだろうか。
どっちもかっこいいジジイである。
まとめ
これぞ天命とばかり芸術に身を捧げるような人はいつの時代にも一定数存在している。
幸運な人は、それを応援して支えてくれ流人がいることで、その天命を全うできるのだろう。
果たして自分にとってまさに生きる時間とイコールな存在なんてものはあるだろうかと考えるといささか寂しい気持ちにもあるが、ともあれこうして楽しんでいる人を見るのはなんだか嬉しい気持ちになる。
山崎種二さんにとっての天命は、土牛をはじめ有望な画家を1人でも多くに日の目をみてもらい、将来にわたって作品が残ることを支援することだったのかもしれない。
それに見事に答えてみせる素晴らしい絵を残したのが土牛だったり御舟だったりといったものたちだったのだろう。
私はそんな彼らの残してくれた素晴らしい作品を見て、今の世界を少しでも明るい目で見る心を養うだけである。