大きな表現と細やかさ -葛飾北斎「冨嶽三十六景」×川端龍子の会場芸術
連休もはや3日が経ってしまった。
この間の過ごし方は、昼間は美術館に行って、ラーメン食べて買い物して帰って酒を飲むということを繰り返している。
明日は少し違うことをしようかしらと思ったのが昨日、したがって今日は少しく行動を変えてみる。
といっても、朝5時過ぎに目が覚めたので、起きてテレビを見ながらしばらくボケっと過ごし、よっしゃと息巻いて先週買ったエアバイクをキコキコ漕いで少しばかりの筋トレをやった。
ここ1ヶ月くらい、1日30分から1時間程度の軽めの運動で、筋トレといっても腕立てと軽めのウエイトくらいだ。
それでもなんだかやけに肉がつきやすくなったのか、体重がみるみる増えていく。
人生史上見たことのない重量に差し掛かっており、元々タイト目な服ばかりなので、特に肩周りがパチパチになってきた。
どちらかと言えば皮下脂肪を落として、シャープにするつもりだったのに。
ともあれ、まぁせっかくなのでしばらく続けていこう。
そんな朝を迎えて、早く起きたため眠くなり少しだけ寝こけて、而してのち出かけたのであった。
今日は前から気になっていたけど、交通の便が良くないため躊躇われていた、川端龍子記念館へ。
いずれの駅からも離れた住宅街のど真ん中にあり、またそれらの駅も普段使わない路線なのでそこも億劫だったの。
しかし、こんだけ時間もあるし、ちょいと行ってみようじゃないかというわけさ。
企画展で北斎の浮世絵も展示されているとか。
最近北斎絡みの企画展多くないですかね?
葛飾北斎「冨嶽三十六景」×川端龍子の会場芸術
川端龍子の絵は山種美術館でもいくつか見たことがあったのだけど、わかりやすく言うとめちゃでかい絵を描いていた人である。
会場芸術といって、見栄えのする作品を作りたい!といって独自路線を歩んでいたんですね。
そんな彼の自宅に作られたのがこの記念館で、存命の時にはもうできていたらしいね。
縦横数メートル以上という巨大な絵画は、その存在感だけで驚かされるものがある。
【開催概要】
本展では、龍子が愛蔵していた「冨嶽三十六景」全46図と、龍子が富士山を描いた作品群を一挙展示します。
また、龍子旧蔵の伝 俵屋宗達《桜芥子図襖》を特別出品し、龍子の代表作《草の実》(1931年)や《龍子垣》(1961年)等の作品とともに展示し、画家を魅了し続けた古典の名作と、その革新を紹介しています。
日本だけではなく、今や世界的な人気を誇る北斎の名作を龍子の大画面の作品と合わせてどうぞご堪能ください。【開催期間】
令和3年7月17日(土)~ 8月15日(日)
参考:https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/exhibition?20976
基本的には収蔵作品を展示している小さな企画展だが、作家自身がコレクションしていたものの中に北斎の富嶽三十六景があり、そちらを一式展示するというわけだ。
例の波の絵や赤富士はしばしば見たこともあるが、このシリーズながらまとめてみたことはないし、これはなかなか稀有な機会である。
龍子自身もこれらに影響された絵もあり、まあ展示スペースの構造的な問題もあるから単に同じ空間にある、という感じになってしまったのは致し方なしといえど、ともあれ面白い企画である。
個人的見どころ
まずは視界全体に迫ってくる龍子の絵自体がやっぱり強烈だ。
入ってすぐに展示されているのがこちらの作品。
歌舞伎の演目が題材のようだが、とにかく画面全体の力強さと迫力、これである。
私は絵でも音楽でも生で見るにしくはないと思っているけど、彼の絵こそまさにそれである。
彼の唱えた会場芸術とはどういうことか、これを見れば1発でわかるだろう。
デカイので筆の流れもかなりドカンと印象強いわけだが、そのダイナミズムがありありと浮かんでいる。
こうして大きな作品だと、いかにも大味なイメージかもしれないがそんなことはない。
むしろそれぞれは当然のように緻密にしっかりと描き込まれている。
だからこその存在感だろう。
こちらは襖に描かれた作品なので、大きさ自体は他のものに比べれば小さいものである。
桜などが描かれた絵なんだけど、この繊細で緻密なことよ。
基本的な人はこういうものだろう。
静かながらとどっしりした印象だ。
彼は狩野派の影響を強く受けており、それらの影響かこんな絵もある。
黒字に金の絵の具で描かれており、めちゃくちゃかっこいい。
この葉っぱ一つ一つも実に写実的に描かれていて、濃淡も出しながら独自な世界観である。
今回の展示で1番好きだったのはこちら。
今回の企画に沿うテーマだが、北斎の作品にインスパイアされた作品である。
ただ、富士山が描かれてあるのでそれと理解できるが、他の部分についてはもはや抽象絵画的ですらある。
雲海と雷の迸る様や、背景の物々しい様も、空気全てが渦巻いているのが描写されているようで、これまた凄まじい。
ちなみに北斎の作品はこちら。
下の方のキレたみたいのが雷である。
風神雷神で知られるように、雷は雷神様が発生させるものだが、富士山はそれすらも見下ろすくらいデッカいぞ!というわけだ。
雷の周りは真っ暗だから、それだけ荒れた様相なのだろうけど、富士山頂はすっかりいい天気、雷鳴なんぞどこ吹く風である。
北斎については私なんぞが今更いう必要もあるまいが、彼の作品は非常に実験的なところと遊び心が見られ、且つ探究心の塊のような人だったらしいので見ていて面白い。
しばしば実際の景色を再構築して構図を凝らしたり、描き方にもある種のパターンのあるものもあったり、いろいろ試みたのだろうことが窺える。
その最たる例の一つがこちらだろうか。
富士山と湖を描いており、湖面にも逆さ富士が写っているが、よくみると湖面の方は雪がかぶっている。
こんな遊び心を忍ばせたりしている。
今回の展示品は龍子の個人的なコレクションだったらしく、状態も非常に良いもののようで色彩も鮮明でかけているものもなく、非常に質のようものだった。
もっとも、どの時期に刷られたものかはわからないので後になって再刷されたものかもしれないが。
龍子と音楽
そんな川端龍子にリンクする音楽って何かしら、と考えてみると、こちらなどはいかがだろうか。
日本のオルタナティブ・ミクスチャーの先駆けたるBack Drop Bombの"graySONGzone"。
賛否両論を巻き起こした3rdアルバム収録で、それまで全編英語詞だった彼らが日本語の詩を初めて導入。
彼らは元々日本においてHi Standardらと共にインディという価値観を体現していく一方で、Dragon Ashらにも影響を与える形で独自の音楽を展開していた。
ベースはロック、ファンク、ヒップホップ、レゲエと言ったあたりが1stでは色濃く、2ndではハードロック色がかなり強くなる。
そして3rdではダンス・インダストリアルといった打ち込み的な音楽の影響も色濃くなっていく。
正直歌詞はクールとは言えないと思っているけど、曲は抜群にかっこいいし、彼らなりに広く伝えつつ新しいことをやってやると言う気概も満ちていて、この曲を聞いているとなんだか元気になってくる。
わかる人にだけわかればいいではなく、どれだけ多くの人を巻き込んでいくかって言うのは大事だと思うのですよ。
わかりやすいポップさと、丁寧かつ練られたサウンドメイキング 、大きな表現としっかりと描きこむ繊細さ、そんな共通点を見出せないかしら、なんて思った次第だ。
おわりに
私は絵を見るのは好きだけど、そこまで詳しいわけでもない。
いまだに見方のよくわからない絵もあるけど、その人が何を表現しようとしていたか、なんでそういう道を選んだのかなどを情報として知っているだけでも見え方は変わる。
そうすると、形は違えど何かsら共通点みたいなものが見えてくるような気がするのだ。
実際はどうかわからないけど、昔から音楽家と画家だったり、詩人と演劇家だったりが意気投合している事例も多いらしい。
形が違うだけで、そういうのを見つけながら、同じく自分の中の何かと共振しないかを探すのも面白味である。
STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展示
この展覧会は先週言ったんだけど、文章を途中まで(約2,000字)書いたところで誤って別ページへ飛んで全て消えてしまったので、意気消沈した次第である。
イヤほんと、デジタルって奴は便利だけど残酷だよね。
もっとも、考えて見ればこのPCが既に6年以上経過しており経過しており、OSも 更新できないくらいスペックが遅れている。
不要なアプリとかデータは削除して、できるだけ外付でデータも保存しているが、文字の変換にも時間がかかるしネットの接続も極めて悪いため、作業効率は爆裂に悪い。
とはいえ、そこまで何かやるわけでもないし、動き出しが悪いだけである程度の時間を使っていると徐々に動きも良くなってくるので、とりあえず使っている。
でも、そろそろ潮時か。
それはともかく、行ってきたのはアーティゾン美術館の新収蔵品展だ。
印象派から抽象画を多くコレクションしており、また海外も国内もどちらもあるため、その辺りを見るには非常にいい感じだ。
また施設自体も2019年だったかにリニューアルオープンしたばかりでとても綺麗、都心のビル群の中にあるが、中は静かで丸っと見て回って1時間くらい。
やっぱりこれくらいのボリュームがちょうどいいですね。
STEPS AHEAD: Recent Acquisitions
今回はここ数年で新たにコレクションに加わったものを紹介しつつ、これまでの収蔵作品と合わせて文脈を整理することで、美術史的な観点でも見えてくるのがこうしたコレクション展の面白いところだろう。
【概要】
近年、石橋財団は印象派や日本近代洋画など、従来の核となるコレクションを充実させる一方で、抽象表現を中心とする 20 世紀初頭から現代までの美術、日本の近世美術など、コレクションの幅を広げています。(中略)キュビスムの画家たち、アンリ・マティスのドローイング、マルセル・デュシャン、抽象表現主義の女性画家たち、瀧口修造と実験工房、オーストラリアの現代絵画など、(中略)さらに前進を続けるアーティゾン美術館の今をお見せします。
【開催期間】
2021年2月13日[土] - 9月5日[日]
参考:
私は最近ようやくいろんな絵を楽しめるようになってきたんだけど、やっぱり抽象画はどうみていいかよくわからない。
小学生や中学生の時には、美術の授業で絵画もあったわけだが、いわゆる風景画、写生会みたいな時にはそこそこの絵をかけていたので良く褒められていた。
しかし、抽象画をかけと言われるとどうしていいかわからなかった。
それははっきりと覚えている。
当時の先生に、思いのまま描いてみろ!とかカッコよさげに言われたけど、今にして思えばあの先生方もよく分かっていなかったんじゃないだろうか。
以前にバウハウス展もみに行ったんだけど、そこでの授業風景なども紹介されており、その時の解説で一端についてはちょっと分かったんですよね。
それ以来その視点で見ることはやってみるわけだけど、また別の背景にはある種の哲学的な視点などもあって、なるほどと思う一方で、そんなものわかるか!と思わず突っ込みたくもなるが、だからこそこういう文脈の中で語ると面白くなる。
印象派もそういう側面はあったと思うけど、絵面的な綺麗さやわかりやすさがあるから人気も出るんだろうけど、そうでないとなかなか理解できないよね。
直感的にそれを感じ取れる感性がある人は羨ましいね。
個人的見所
展覧会の冒頭は日本の西洋画家の絵から始まる。
黒田清輝とかが代表的な人だけど、今回は藤島武二さんという人の絵が中心にあるようだ。
こちらは今回大きく展示されている絵の一つだが、こちらのモデルは中国の人らしいですね。
そこはかとなく色使いなどにそれを感じるようにも思うが、ともあれ東洋の絵で美しい横顔の絵がないのでは?と言ってこうしたモチーフを選んだそうな。
日本で西洋画が徐々に増えてきた頃の画家さんだが、既に本国に劣らない画力を持っている。
とはいえ、同時代の日本画もいい作品はたくさんあり、むしろ徐々に双方の影響を受けたミクスチャーな作品も出てくるので、面白い時代だったんだろう。
それ以降はキュビズムの作品から抽象絵画に入り、インスタレーションはじめ現代アートなども登場してくる。
こちらはカンディンスキーの作品だが、まだ抽象絵画に行く手前の印象派的な雰囲気の残る作品である。
現代絵画の父と呼ばれるセザンヌが、「自然を円筒と円錐と球体で捉えよ」といった発言をしたことで、それがキュビズムを確立するブラック、ピカソに多大な示唆を与えて、またバウハウスの授業でも目の前のものをできるだけシンプルな図形に分解せよ、といった授業もあったそうだ。
こちらは私は知らない画家さんだったが、キュビズムの人らしい。
キュビズムと言えば、ピカソの作品のように子供の落書きなんて言われることもあるけど、その背景を知ってから見るとなるほどなと思えるから面白い。
それこそかつては写真のような精緻な作風が西洋画の大きな特徴だったが、印象派においてはより網膜に移る光や色彩の鮮やかさをどう描くかといった表現にシフトしていった。
また描く対象も、宗教的なモチーフや似顔絵だけでなく、風景画も増えて、かつての絵画的な価値も変わったということらしい。
そこからさらに「絵画とは何ぞ?」といったある種哲学的な問いも発生し、キュビズムや抽象絵画のような作品もどんどん生まれてきたのだろう。
遠近法を使った立体的な表現が主流な中で、二次元でそれを表現したらどうなるかみたいな話がキュビズムの基本発想というから、なぜそんなことを考えたのか、またそれをああいう形で表現したのはすごいよね。
そこからさらに対象を切り刻んで、再構築していく中でさらに独自の作風に転じていくのだけど、この人の頃には既に一定ジャンルとして確立していたんだろうかね。
また抽象画においては、こんな作品も。
文字のようにも見えるし、中央のものは鳥とかトンボにも見える。
タイトルを「絵画」とつけるあたりある種のメタ表現なのかもしれないが、やっぱりパッとみてもわからないよね。
でも、だからあえてこれなんだろう?と立ち止まって考えてみるのも芸術作品の面白みだろう。
人はわからないものに拒絶反応に近いものをよく見せるし、なんなら否定する場合もある。
そんなことはしても何の意味もないし、意味がわからないなら意味がわからないものとして受け入れて、せめてこれってなんだろうかと考えてみる姿勢はとても大事だと思っている。
私は音楽も好きだけど、ようわからんと思いながら聞いているものも少なからずある。
あちこちの専門誌で評価されていても、わからないものはわからないし、でもそれは無価値なわけではないし、また専門誌が扱わないから無価値かといえばそういうわけでもない。
それはそれ、これはこれ、とりあえず何でも一度考えてみることが意味あると思っている。
そのほかにも彫刻や立体作品も多数あり、撮影も可能らしい。
作品の前でポーズして撮っている若い女の子たちがいたが、はっきり言って邪魔だった。
そういうのはどうかと思うが、ともあれまとまってみられるいい機会である。
Step Aheadと音楽と
抽象絵画の訳わからなさを表すには、この音楽だろう。
ニューヨークのアヴァンギャルド集団、Black Diceの"Pigs"。
初期にはBoredomsに影響を受けたトランシーな音楽をやっていたが、徐々にノイズ性とカオス性を増して、なのに独特なポップさも得た摩訶不思議な音楽をやっている。
一応ヴォーカルらしきもあるが、歌というよりは呻き声だ。
J-POPしか聞かないような人にはもはやなんなんのかわからないだろうが、私も正直に白状すれば、よくわからない。
しかし、そのよくわからなさが楽しくなってしまって、気がつけば全アルバムを持っている。
つい先日久しぶりに曲を発表しているので、またアルバムとしてまとまった作品として聴けるのを楽しみにしている。
まとめ
個人的な価値観にはなるけど、わからないものをわからないものとして面白がれるようになると、少なくともストレスは減る。
それって、知らないこと、わからないことを恥に思うことがなくなるし、いい意味で開き直ることになるから、素直に人に教えにも耳を傾けるし、自分で勉強するようにもなると幅も広がる。
別に絵画とか音楽に限らず、仕事でもなんでもそうである。
馬鹿でかい、視界いっぱいの意味不明はそれはそれで感動体験なので、時間のある方は是非足を運んでみて欲しいですね。
コレクター福富太郎の眼
今日は久しぶりの展覧会、東京駅直結のステーションギャラリーで開催中の福富太郎という個人のコレクターの企画展へ。
日本人だと松方さんという方や、原三渓さんという人がいたりと、蒐集家として著名な人は何人かいて、過去海外のビュールレ?という人やそのほか企画展としてしばしば開催される切り口である。
美術館展と違い、あくまで個人の目線でのコレクションなので、画家とコレクターの距離感によっても情報量が違ってくるのが面白いところだ。
特に今回は日本人画家のコレクションということもあり、そのほかでは山種美術館の創設者くらいだろうか。
ともあれ、鏑木清方始め著名な画家の作品だけでなく、初めて聞いた画家の作品もあり、非常によかったですね。
コレクター福富太郎の眼
そもそもこの福富太郎さん、キャバレーのオーナーだったとか。
その中で美術品への興味もあり蒐集するようになったというが、そもそも事業家としてもとても成功した人らしいですね。
キャバレーという言葉自体が既に時代生を帯びているが、キャバクラだってキャバレークラブの略だからね、あくまで言葉の印象なんてのは慣習によるだろう。
それはともあれ、テレビにもでたり映画にもでたりしていたらしいので、素人芸能人の走りみたいな側面もあったのかもしれない。
そんな彼は美人画を主に蒐集していたため、コレクションの多くも美人画である。
そのため、美人画家として名高い鏑木清方や上村松園、また様々な画家の美人画が多くを占めている。
後半では戦争画も蒐集していたようで、時代の描写としての使命感も帯びていたようだ。
いつの時代もアートは政治や世論の弾圧で客観的ではいられないものらしい。
【概要】
福富太郎(ふくとみ たろう/1931-2018)は、1964年の東京オリンピック景気を背景に、全国に44店舗にものぼるキャバレーを展開して、キャバレー王の異名をとった実業家です。その一方で、父親の影響で少年期に興味をもった美術品蒐集に熱中し、コレクター人生も鮮やかに展開させました。(略)
福富コレクションといえば美人画が有名ですが、本展は、作品を追い求めた福富太郎の眼に焦点をあて、美人画だけではない、類稀なるコレクションの全体像を提示する初の機会となります。鏑木清方の作品十数点をはじめとする優品ぞろいの美人画はもとより、洋画黎明期から第二次世界大戦に至る時代を映す油彩画まで、魅力的な作品八十余点をご紹介いたします。
【開催期間】
2021年4月24日(土) - 6月27日(日)
出典;
個人的みどころ
美人画コレクターとして著名なだけあって、やはりまずは美人画だろう。
およそ現代的な視点から見れば、果たしてという側面はあるものの、面白いもので顔だけではない艶やかさのようなものが確かにあって、それが不思議なものだ。
昔はいわゆる和服、着物ですよね、をきているので露出は多くないわけだけど、和服の良さってなんだかんだ女性の女性的な部分はちゃんと見せるような作りになっているのである。
例えば首筋、うなじとかのところはガッと開かれていたり、腰には帯があるのでキュッとしまっている分お尻のラインはしっかり出ている。
胸元があまり強調されないのは日本的な価値観なのかもしれないが、そうしたポイントポイントの艶めかしさと、着物の向こう側に見えるボディラインみたいなものを想像すると、思わず色っぽいな・・・とか思ってしまう。
こうやって書くと、「また女性を性の対象と見て!」みたいなフェミニスト的な目線で文句を言われそうだけど、でもあの曲線美は男にはないものだし、色気っていうのは必ずしも異性に対してのアピールだけではない。
直感的に美しいと感じるものは美しいわけだし、それが女性の体特有のものであればそれを表現することは自然なことである。
冒頭は鏑木清方の絵画が中心に紹介されるが、今回の目玉の一つがこちら。
日本画において、しばしば黒の深さがとても綺麗なんだけど、着物と髪の描き方も違っていて、また表情も現代的な目から見ても十分美人だろう。
背景情報も色々知った上で見ると印象も変わるので、設定にも是非目を向けてほしいところだ。
変わり種だとこんな絵もある。
人魚を描いたものだが、当時は批判の対象だったり、海外の作品で似た構図のものがあったためパクリ疑惑をかけられたり、描いた本人もイマイチと評価していたりとぱっとしなかったらしいが、今に到れば彼の画業においても変わり種のモチーフなので人気の作品の一つのようだ。
パクリ疑惑も、そもそも書いた当時その絵は知らなかったというし、モチーフは泉鏡花の小説だったという話もあるから、芸術においてはいつの時代もこういう話って出てくるんですね。
ちなみに、この人魚の表情はなんだか悪戯なかんじというか、手には魚を握っておりやや怪しげな雰囲気もあり、だからこそ妖魚というタイトルなのだろうか。
この人の美人画はいずれも貞淑な趣があって、個人的にはこういう女性像は好きなので、つい見入ってしまうところがあり、また筆致も繊細なので単純に絵として美しい。
女性にも見てほしい作品群である。
また今回は渡辺省亭展でも展示されていた絵もいくつか展示されていたんだけど、その類似の構図のものも。
役人の妻の浴後の身なりを整える場面の絵で、元ネタは師匠の絵のリメイクである。
この絵に似た構図の作品がいくつか展示されており、ヌードなのでわかりやすくセクシーとも言えるが、個人的には侍女の顔に注目だ。
主役たる妻が美人という役割だと思うが、それと対比させるように明らかに不美人に描かれているのではないだろうか。
面白いというと悪いが、類似構図の作品は甲斐を重ねるごとにそれが加速しており、どこか悪意を感じざるを得ない。
思わず笑ってしまったが、こういうところも注目だ。
こちらは私は初めましての作家がだったのだけど、非常に印象的な絵だったので。
清方の弟子でもあった池田輝方という人の絵で、歌舞伎の演目をモチーフにした作品らしい。
お夏という人が狂気の人となってしまった場面を描いているが、穏やかな表情が却ってリアルだ。
虚な目と半開きな目が心ここにあらず感もあってよいではないか。
乱れた着物と手荷物も全て地面に落として座り込む姿は、現代の街中でも見かける景色である。
演目自体の内容は細かく見ていないけど、実は歌舞伎って現代にも通じる話というから、こういうのをきっかけにまた見てみても面白いかもしれない。
誰か一緒に行ってくれないかな。
そのほかこんな作品も。
みかえり美人という言葉が昔からあるが、こちらは顔も見えていないが着物が半分以上脱げており肩も顕、着物の青も鮮やかで、西洋画の影響も見られる作品で非常に艶めかしい。
この岡田三郎助さんは大学で教鞭もとるほどの重鎮で、黒田清輝の流れにのる西洋画の保守派だったとか。
こちらのタッチの方が馴染みがある人も多いだろうが、ともあれ色々想像も掻き立てられる作品である。
ちなみに、私が日本画における女性画で、見ていて面白いなと思うポイント一つが着物の絵柄だったり色だったりする。
とても艶やかでド派手だったり、色の組み合わせもエキセントリック、また感情や思いを着物の柄に託したような作品も多くあり、西洋画とは違ったファッション的な側面で楽しめると思っている。
実際浮世絵の着物の柄とか、どういうセンスなんだと思う組み合わせも多く、近年原宿系などと言われて世界的にもすっかり有名になった日本のファッションセンス、色彩感覚というのはこの時代からあるものなのかもしれない。
絵自体には興味がなくても、着物の柄という視点で見ても十分に楽しめるはずである。
長くなってしまったので、最後は蒐集家としての彼の価値観を感じさせるこんな絵を。
こちらは日清戦争の風景を描いたという作品らしく、モチーフは蘇州という中国の都市らしい。
街に大きく影を落とすのは戦闘機だろうが、明らかに実際よりも大きく描かれている。
戦争画はそのモチーフ的に絵画的な価値がつきにくいらしんだけど、そういうことじゃなくて、戦争賛美とかそういうことじゃなくて、時代のドキュメントとして戦争画も残しておくべきだ!と福富さんは考えていたようで、別に資産としてではなく、芸術が芸術たるゆえんがどこにあるのか、その視点を持っていたことがとても重要なポイントではないだろうか。
冒頭のポスターにも使われた絵も、モチーフは心中ものらしく、当時はあまり好んで売買されるものではなかったらしい。
いつの時代も表面的なことだけを見て騒ぎ立てる人は一定いたんだろうね。
ともあれ、彼は自分の目を信じて、自分が素晴らしいと思えるものを好んで集めていたというから、文化的な価値を重視する美術館のコレクションとは違う側面が見えてくるのは面白いところである。
実際、全然名前も知らない作家、才能は認められていたのに若くしてなくなったため世に知られることのなかった存在まで、当時リアルタイムだったからこそ出会えた作品をこうして後世に残してきたことは、芸術家にとってもとても意味のある存在だったのではないだろうか。
福富太郎と音楽
そんな彼と音楽を考えてみたが、こんなバンドはどうだろうか。
90年代のUSインディシーンとの交流もあり、そのあたりと音楽的にも通じるところがあるが、歌詞が非常に独特。
時にただコミカルなだけもあるが、指摘で端的な言葉と曲との相乗効果で独特の空間を生んでいる。
商業的に成功しているとは言い難いが、バンドをやっている人で彼らのファンは意外と少なくない。
この動画の曲も、歌詞はほんの数行程度の日本語だ。
だけど、聞いているとなんとも言えない不思議な気持ちにさせられて、色々考えてしまう。
具体的なようで抽象的、シンプルなようでしっかりと奥行きがある、売れる売れないは別にして、自分たちの描く表現を貫いてしっかりファンでもできている。
そんな存在が彼らmooolsである。
余談だが、ヴォーカルの酒井さんは大喜利の強さにも定評がある。
いずれにせよ、売れている音楽が全てじゃないし、周りの評価は一面でしかないというのはどんな世界でも同じである。
まとめ
コロナの影響もあって、開催期間は今月27日までなのでもう直ぐ終了なのだけど、個人の趣味の世界を覗き見る思いで見てみるといいですよ。
日本画、特にそれほど著名でもない人の展覧会にしては今日は人出も多かったのは、単に時勢の影響もあるだろうけど、見にいく価値が十分にありますね。
ちなみに、図録のデザインもキャバレー感があってポップで素敵です。
人生なんて所詮生きて数十年、他人の理解に拘ってみても、そいつらがいつまで生きているかわからないんだし、自分なりに楽しくこだわりを持って生きていけたら、それが幸せなんじゃないかな。
百花繚乱 -華麗なる花の世界
この緊急事態宣言において、いろんなイベントごとも映画館も閉じたまま、美術館もどうなるかと言われたが、中には再会をするところもあって、私にとってはありがたい限りだ。
まだまだ閉館中のままのところは多いが、私が好きな美術館の一つ、山種美術館が時短ながら再開するということで、新しい展覧会も開催されるということで出向くことに。
久しぶりの美術館であるが、事前に調べると流石に混雑もなさそうだったね。
この美術館は恵比寿にあるのだけど、日本画専門も美術館で、その名の通り山崎種二さんという人が設立した美術館だ。
近代の日本画家との交流もあったため、彼のために書き下ろされた作品も多く、有名な画家の作品は概ね見ることができる。
ほぼ収蔵コレクションでの企画展も多いため、以前意味たけど見逃してしまっていた作品も改めて別な文脈で見ることもでき、その都度発見もあるため少しずつでも知識を深めていくにも非常に有用だ。
また大きさもそこまで大きく無いので、じっくりみても1時間もあれば見終えるボリィームもちょうどいい。
私は展覧会のたびに足を運んでいるが、おそらく一番足を運んでいる美術館でもある。
今は花の絵を中心にした企画展を開催している。
百花繚乱 -華麗なる花の世界
【概要】
鳥が謳い、花々が色とりどりに咲き誇る春は、私たちの五感を楽しませてくれます。当館では、この季節にあわせ花の絵画で美術館を満開にする特別展「百花繚乱―花言葉・花図鑑―」を開催いたします。
(略)
本展では、「物語でたどる人と花」、「ユートピアとしての草花と鳥 」、「四季折々の花」という3つの切り口から花を描いた作品を厳選し、花言葉や花の特徴、花を題材とした和歌や画家の言葉とともに、その魅力をご紹介します。満開に咲き誇る花の表現を通じて、美術はもちろんのこと文学や園芸の視点からも作品を読み解きながら絵画をお楽しみいただける展覧会です。
【開催期間】
2021年4月10日(土)~6月27日(日)
出典:【開館55周年記念特別展】 百花繚乱 ―華麗なる花の世界― - 山種美術館
花鳥風月という言葉があるように、昔から美の形容として花はその代表格であった。
多くの画家も題材に選んでいたわけだが、描き方もタッチも変わるので面白いものだ。
個人的見どころ
正直に白状すると、私はそんなに花の絵が好きなわけでは無い。
それこそブリューゲルなどの花の生物画の名手とされる人の展覧会も割とよくみに行ったけど、風景画の方が好きだし、そもそも私は実家も花を飾るような家でもなかったし、なんなら花粉症なので花って苦手なんですよね。
ともあれ、何度も絵としてみていると、やはりそれなりにじっくり見るようにもなるわけで、それなりに楽しめるようにもなるものだ。
山種美術館は日本画専門なので、では日本ではどのように花が描かれてきたのかもみられるのが面白いところだ。
そもそも油絵で描かれることの方が多い西洋画に対して、日本画は画材も違い、それが必然表現の形も異なる。
そこが専門美術館として見る時のおもろしみの一つでは無いだろうか。
特に日本では四季の変化が代名詞だ。
それに因んだ連作も多くあるわけだが、本展覧会の目玉の一つがその四季を描いたこちらだろう。
春は桃色と赤の絵に雉子?を描いた明るい色彩、夏は青白赤と、何より緑も鮮やかだ。
秋葉花は落ちて紅葉の赤が彩っており、冬は雪と小さな白い梅?が彩っている。
その白が際立つように湖面の青が鮮やかで、この辺りの対比が画家としてのセンスだろう。
夏の賑わいも画面から溢れているし、秋の静かになり始めるような空気もいいじゃないか。
作品はかなり大きな絵なので、視界いっぱいに眺めると迫力も素晴らしい。
また、この展覧会で出品数の多い画家の一人が小林古径だと思うが、個人的には彼の絵はみていると不思議な気分になる。
西洋画のがっつりした彩色とそれによる立体感を割と見慣れてしまっているので、彼のあっさりしたというか平板なというか、この絵のタッチは不思議な感覚を与えてくるのだ。
写実性という観点では確かにそうでもないなと思うが、かと言って稚拙なわけではもちろん無い。
独特のタッチというか、そういうものが確かにあるんだろうなと思うわけだ。
それこそ速水御舟の有名な屏風の絵もあるのだけど、そういうある種この浮世から切り離されたような世界観とでもいおうか、そういうものを感じるのである。
そんな速水御舟の作品も展示されている。
この人は不出世の画力と評されるほど非常に高い画力を誇った人で、代表作の「炎舞」という作品は重要文化財にも指定されている。
彼は30歳そこそこでなくなってしまうので、非常に活動期間は短いのだけど、その中でも次々と画風を変化させており、西洋画のタッチも取り入れたり、時期によって絵の雰囲気はだいぶ違う。
私はこの人が好きなのだけど、それは彼の言葉にも現れているがそれはまた別の機会に書くとして、この絵は非常に写実的に描かれた椿の花である。
葉の表裏で明確に異なる濃淡の対比も見事だ。
西洋画のように背景は紙のそれを生かしたままなので、対象だけがポッと浮かび上がったように見えるのも、日本画の特徴だろう。
より近代的な画家では山口逢春などはそうだろうか、西洋画の影響も受けてか、全体にしっかり描きこまれて、かなり立体感も感じさせるタッチだ。
紫陽花を描いた作品だが、こちらも写実性が高く、緻密に描かれた作品だ。
個人的には紫陽花ってあんまり好きな花では無いし、綺麗だと思ったこともないのが正直なところだが、絵として見る分にはいいものである。
従来的な掛け軸に描く花もあれば、こうしていわゆる絵というのか、そうして描かれるものもあって、画材の変化が絵の印象にも影響を与えているのもみて取れて面白いところだろう。
その他にも加山又造、川端龍子、奥村土牛、横山大観といった巨匠と呼ばれる人の絵も展示されているが、個人的に非常に印象的だったのはこの作品だ。
画像が小さいものしか見つからなかったが、明治の女性画家だそうだ。
こうした日本画の中で私が見事だなと唸るのは、まるで一筆書きのような勢いの中に繊細な構図が見えるところだったりするが、こちらの絵はそのラフなタッチもありながら詳細は非常に丁寧に描かれており、そのバランスが絶妙なのである。
鴨もめちゃくちゃ写実的に描かれているし、葉っぱや花も全て緻密なんだけど、しゃっしゃっと肩の力を入れずに描いたようなところもあって、本当に絶妙なんですよ。
うまくいえる言葉がないのが悔しいが、この絵は特に立ち止まってしまったね。
昔はこういう日本画って全然意味がわからなかったし、写真のような写実性のある西洋画の方がわかりやすい驚きがあったけど、絵画という観点でみていくと、日本画ならではの構築美であったり描き方であったりも面白くて、それぞれの文化としての違いを比べてみるのも面白いのである。
日本の花と音楽と
この展覧会を見ながら、どんな曲がマッチしそうかと考えてみると難しいところであるが、他の国ではきっと生まれ得ない、日本独自の美感という観点ではこの曲などはどうだろか。
日本が世界に誇るべきインディーズの伝説、ゆらゆら帝国の”空洞です”。
カルト的な人気を当初から得ており、一度ハマると抜け出せない沼みたいな音楽を展開していた三人組のロックバンドだ。
初期はアングラ臭漂うかっこいいロックだったが、彼らが自ら「完成してしまった」といって解散の要因ともなったのがこの曲だと言われている。
力が抜けて観念的な歌詞、途中ちょっと切ないメロディもあって、ワビサビをここまで感じさせてくれる曲もそうはあるまい。
空洞です、というタイトルもそうだが、歌詞も聴いてみてもらうと一聴すると意味不明だがふとした瞬間に頭を流れてくる中毒性は半端ない。
ラストアルバムはアメリカの、当時世界的に注目されていたDFAというレーベルからもリリースされていたので、ついに世界進出かと期待された矢先に解散してしまったので、なかなかの衝撃だったな。
ヴォーカルだった坂本慎太郎は今はソロで活動しており、ドイツでもライブをやっていたりする。
ともあれ、この空気感は言葉にするのは難しいけど、日本っぽいなとなんとなく感じてしまう。
まとめ
日本画は中国とかそっちの絵を源流にしているものが多いのか、西洋画とはそもそも絵の描き方とか世界観が異なる。
近代になって西洋画の影響もあり、黒田清輝らの尽力もありもはやわけへ立つのもナンセンスなくらいになってきている。
その過渡期にある画家の絵がこの山美術館には多く収蔵されているので、その変遷を感じる意味でも面白いのだ。
今年も花見を楽しむこともできなかったし、家にいる時間が長いので、どうにも心が腐りそうな気持ちがしてしまうが、たまには絵でも見てその世界に浸ることで現実とは違う世界を味わえていいと思うのである。
絵画鑑賞におけるライブ性の価値 -ルノワール展(2016)の思い出
この連休では観たい展覧会もたくさんあったのだが、この体たらくでそれも叶わず、なんなら体調不良でここ2日は半分以上寝ていたので、この連休なんやねん、という感じである。
せめてもの成果は部屋が片付いたことと、しっかり寝られたことだろうか。
日時指定にすると、営業させている方がコストはかかってしまうんだろうな。
仕方ないところはあるにせよ、やっぱり残念だ。
で、新規には行けないので、昔行ったやつを思い出すコーナーである。
私は大学の頃からちょくちょく絵を観に行ってはいたけど、当時はなんとなく以外の何者でもなかった。
特に画家の名前も知らないし、印象派という言葉も知らなかったくらい。
そうなるとなぜ観に行っていたのかもちょっと謎だが、そんな私が明確に絵を熱心にみるようになったタイミングがあった。
それは、5年前に国立新美術館で開催された『ルノワール展』であった。
オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展
実はこれを書くまで、上野開催だと勘違いしていたことは内緒だ。
【開催概要】
本展覧会は、両美術館が所蔵する、100点を超える絵画や彫刻、デッサン、パステル、貴重な資料の数々によって画家ピエール・ オーギュスト・ ルノワール(1841-1919)の全貌に迫ります。
(中略)革新的な印象派の試みから、伝統への回帰、両者の融合へと至る軌跡も浮かび上がるでしょう。画家が辿った道のりは、常に挑戦であり、終わることのない探究でした。
そして、このたび、ルノワールの最高傑作《ムーラン・ ド ・ ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)が日本ではじめて展示されます。
【開催期間】
2016年4月27日(水)~8月22日(月)
出典:
オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
何を隠そう、この”ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会”が、私が最初に絵画を生で見ることの意義を感じた作品であった。
この時初来日だったんですね。
と言って仔細に作品については流石に覚えていないので、お茶を濁すためにルノワールをちょっと調べておこう。
色彩画家ルノワール
日本では喫茶店の名前にもなっているので、少なくとも聴いたことのある人は存外多いだろう。
私もその一人であった。
元々は磁器職人として若くから働いており、画家を目指すようになったのは20歳を過ぎてからというから結構遅咲きと言えるだろう。
得てして有名人は幼い頃からその実力を、なんていう逸話があるわけだが、彼はそうでない。
しかし、早々に才能が見出されて、23歳ではすでに賞を受賞するなど、単に出会うタイミングだけの問題だったとも言える。
彼は印象派の画家として紹介されることが多く、実際その頃に活躍していた画家である。
印象派の絵はとても華やかで綺麗なものが多いので、世界的にも人気があるが、このルノワールは日本でも人気の画家の一人である。
日本の画家でも彼に教えを乞うた人がいるんだけど、彼の絵は見れば大体この人のものだとわかる。
割と中期以降とかになるのかもしれないが、色使いや、特に女性の顔立ちなどが非常に特徴的なのである。
こちらの絵はいくつかのパターンがあり、そのうちの一つは横浜美術館に収蔵されているんだけど、全体にビロードのような筆致に緑と青の中間のような色合い、丸みを帯びてやや垂れ目がちな顔立ちは、彼の好みによるのだろか。
ヌード画なども書いているが、全体に豊満な体を描くことが多く、デッサンの正確さよりもふくよかさが強調されていたり、その割に顔が幼く写るのは、彼なりの女性美の中に少女性みたいなものがあったのだろうか。
別の展覧会で展示された作品は、肖像画だが傑作の一つと言われているものであった。
知人の娘さんだったかだと思ったが、髪の毛の柔らかさなど実に少女らしい可愛らしさを描いている。
ちなみにこの絵の展覧会の際のキャッチコピーは、某アイドルグループを意識したものだったが、だいぶ批判されていたのはまた別の話だ。
個人的にはちょっとロリコンだったんじゃないかと密かに疑っている。
それはともかく、こうした女性を描いたものが有名だし、私もよく見るが、時期により画風が違っているし、風景画や男性画ももちろん書いているし、もう少し俯瞰的な風景もよく描いている。
そんな中の一つが、かの展覧会の目玉でもあった”ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会”である。
輝く絵画
改めてこちらがその作品だ。
当時会場でこの絵を見た時に、ものすごく輝いて見えたんですよね。
それこそハッとするくらい個人的にはエポックメイキングな体験だった。
今にして思えば、証明だったり油絵具の凹凸だったりで、物理的なキラキラ感が眩しかったことは実際あるだろう。
でも、そもそも印象派の画家にとっての一つの大きなテーマが光を描くことだと思うが、そのために外に出て、その時の日差しだったり明るさを表現することに腐心していたわけだから、その企てが見事にうまく行ったということだろう。
そして、そのキラキラ感は印刷された図録などではわからないもので、これは実際の絵画を見ないとわからないのである。
ちなみにルノワールは、自身の描く絵について「世の中目にしたくないようなものがたくさんある。だからせめて絵画だけは美しいものを描きたい」といったようなことを大事にしていたとか。
彼の絵は須くキラキラして、色合いも相まって桃源郷のような世界観をしばしば見せている。
この絵についても他の絵についても、そうした価値観で描かれているからこそなのかもしれない。
絵画もライブに若くはなし
私は音楽も好きなので、ライブへよく行くんだけど、CDで音楽聴けばいいじゃんという人も当然いる。
しかし、会場で聴く音楽はただの音符の羅列ではなく、振動も含めた体験に変わるのである。
絵画も同じで、ただ綺麗な絵だなという以上に、視覚に対する占有率も上がるし、凝った照明で見せられることで情報量が圧倒的に変わる。
特に、印象派の絵画は登場いた当初は未完成だと揶揄されていたくらい、一つ一つの事物は曖昧だったりラフだったりして、何が書いてあるのかわからないことがほとんどだ。
しかし、不思議なことに少し距離を置くとそれらが判然としてくるのである。
これは一種の錯覚を用いたものなわけで、それこそ点描と呼ばれる画法も同じく感覚上で色が混ざり合うことを狙った技法だったりして、実はちょっと科学的な視点で描かれているところもあるのである。
まあ、そんなことは詰まるところどうでも良くて、生で本物であるからこそ伝わってくる何かが芸術にはあるのである。
営業が再開したら、また行きたいですね。
モネはマイブラ
私の中で、最初に音楽と絵が結びついたのは上野で開催されていたモネ展の大きな垂れ幕を見たときだった。
おそらくもう5年以上前だと思うが、その頃から絵はちょくちょく観に行っていたものの、当時はなんとなく眺める程度だった。
暇だからたまにいくという程度である。
いつも音楽を聴きながら街をぶらついているのだけど、ふとこの展覧会の垂れ幕を見た瞬間に、何故かMy Bloody Valentineの"Only Shallow"という曲が頭の中で鳴り響いたのである。
モネの、特に効果になる程光で目が眩んだ瞬間のような絵画世界を展開していたのだけど、その絵とマイブラのノイズと美メロの轟音がマッチしたような気がしたのである。
輪郭すらはっきりしないし、まるで洪水のようにぶつかってくるそれらは何か共通項のようなものを感じたのだろう。
実際、萌音は渦巻く色彩の中に光を捉えようとしたのだろうし、マイブラも渦巻く音像の中に世界の何かを閉じ込めようとしたはずである。
どちらも人を圧倒する何かに成功していると思うし。
芸術がそうした心の中に捉えた何かを再構築して表現することだとすれば、同じものをビジュアルで表現すれば絵画だし、後で表現すれば音楽になるし、文字に表せば詩や文学となるだろう。
私がこのブログで絵画×音楽で結びつけられないかな、なんて思ったきっかけはそんな個人的な体験による。
この二つに限らず、世の中の全ては何かしら同じような背景に収斂されると思っていて、そこには一般性が隠れていると私は考えているので、異なるものをどう繋いでみるか、というテーマもあるのである。
ともあれ、たまに箸休め的にこんな徒然も書こう。
モンドリアン展 純粋な絵画を求めて
コロナ禍とあって、平日街中は働く人たちも含めてかなり人の出は少ない。
休日の方が多いのではないか。
出社しても客先はリモートということが増えているので、とりあえず会社に来させられるサラリーマンの悲哀よ。
そのおかげで、平日休みだと快適で良いですね。
これ好機とてモンドリアン展へ。
みたことのあるあの赤と白のあの印象的な抽象画、なるほどあれを描いたのがモンドリアンという人か、というのを知ったのはこの展覧会の企画を見てである。
カンディンスキーとかと思ってた。
私はあんまり芸術的な感性が豊かではないので、抽象絵画が何をしようとしているのかが分からない。
しかし、面白いもので勉強すればそれなりにふむふむなどと言うことくらいはできるようになるわけだ。
そんな訳で、非常な空いていて快適なモンドリアン展へ。
モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて
雨の中、新宿のど真ん中にある損保美術館へ。
繁華街からは離れているので、意外と周辺は落ち着きがある。
【開催概要】
モンドリアン(1872-1944)生誕150年を記念して、オランダのデン・ハーグ美術館所蔵のモンドリアン作品50点、国内外美術館所蔵のモンドリアン作品と関連作家作品約20点を展示します。(略)
モンドリアンの絵画構成は、デザイン領域まで影響を与えています。(略)
日本で23年ぶりの待望の「モンドリアン展」です。
【開催期間】
2021.03.23(火)- 06.06(日)
参照:
余談だが、会社の子の携帯ケースが、モンドリアンの絵画だったな。
個人的見どころ
個展、回顧展の良いところは、その画家の画業を初期からたどり、どんな変遷で彼らが独自の表現にたどり着いたかがわかるところだ。
抽象画は、悪い言い方をすれば誰でも描けそうなものだが、しかしやはりただの模様ではないのである。
モンドリアンも、初期は印象派的なタッチの絵画から始まっていたようだ。
同時代の画家なので、そりゃ影響も受けるよね。
しかし、早々にセザンヌ的発想というか、写実的な絵画から離れて色彩や形態に関心が向うらしい。
しかし、点描と言えばジョルジュ・スーラが有名だが、彼の作品にみられるような明るさよりは、一見して正直不気味でさえある。
絵のタッチは点描やキュビズムなども経て、また色彩はまさか構築と呼ぶべきものになっていく。
とはいえ、この頃は作風が前後しているというか、引き続き印象はな絵も描いており、点描なども駆使した様々な画風を披露している。
そこから幾人かの同士も得て、線と色彩を組み合わせた例の作風へと発展していくらしい。
初期の絵においても、その萌芽と思える表現は見つけられるところがあり、本人もそうしたコメントをしていたのだとか。
絵画とはなんぞや、みたいなことをずっと考えていた人なんだろう。
経済的に困窮していた時期もあったため、その間はやりたいことの別で発注に応じた絵画も書いていたというが、そこにさらりと自分の表現欲求も忍ばせていたとか。
ところで、抽象絵画においてしばしばタイトルに冠せられるCompositionという言葉だが、日本に直訳すると組成、構成となるのだが、絵画における構成のみを抽出する、というような意味なのだろうか。
さきにも出したカンディンスキーについては、バウハウス展なんかでも見て、そこで初めて抽象画の面白さの一端を感じた思いがしたが、それらと比べてもモンドリアンの絵の方がさらにストイックな印象だ。
見えているものを1番シンプルな構造に置き換えていく、ということをバウハウスの授業ではやっていたらしいが、そこから具体的なものでなくても、奥行きや色彩、構造を感じることはできるのであったらそれが抽象画の一つの側面であるというが、構成要素が少なくなればなるほど抽象度は高まり、やはり線と色にしか見えない訳だ。
本当に線と色を描いただけだ、と言われればそうなのかもしれないが、そこに何を求めたんだろうか、というのが掘り下げる際の面白いところだし、何らよりこの人は考えて描いている訳なので、そこには必ず意図がある訳である。
ちなみに、色彩は抑えて線の表現で画面に動きをつけたような絵画も。
両端の線が細くなっており、太い線との対比で前後関係や遠近感のようなものが見えはしないか。
と、まあ言ってみたところでよくわかっていないんだけどね。
とはいえ、やはり生で、目の前で見ると80cm四方とかあるので、目の前で、視界一杯にみているとやはり違うよ。
静かにみられるので、よくわからん・・・とか思いながら探してみるのもとても楽しいのでおすすめである。
モンドリアンと音楽
さて、そんなモンドリアンの絵画にマッチしそうなのは何かしら、というとやはりこれだろう。
世界のスーパーマス/ポストロックバンド、Battlesである。
親も音楽家であり、いまや現代音楽に振り切ったタイヨンダイはじめ、初期はハードコアバンドや、マスロックの先駆的なバンドにいたメンバーで構成されている。
バンドとして初期は特に実験的な色が強く、ミニマルな展開が終始する、はっきり言って地味な音楽だった。
しかし、1stフルアルバムではそこにポップ性が備わり一気に波及力を強めた。
その後2ndで1人脱退、さらに今はもう1人脱退してしまい、メンバーは2人となっている。
そんな2人体制で昨年アルバムをリリースしているが、ますますキテレツになっていて驚いた。
映像もちょうどぴったりだった。
生演奏を軸にしながらも、その場で音を録音して、ループさせて構築していくようなスタイルなので、ライブは本当に忙しそうだ。
音楽的にはポップとは言ってもやはりキテレツ、構築的でかっちりしているようでだいぶ変な音楽だし、なんのこっちゃ分からん、という人も少なくないだろう。
しかし、彼らもまた音楽の探究者である。
そんなスタンスや変遷、音楽を通して見えてくる音像も、モンドリアンの作品と通じるところがあるのではなかろうか。
まとめ
音楽、絵画によらず、表現の根源は通じるところがあるだろう。
一見意味不明でも、その表現の根源を探ることで、たとえ感性が乏しくても少しでも理解には繋がるものである。
少なくともそうは思えると、やはり見ていて面白いからね。
絵の横に解説文も載っていたが、正直それを読んでもピンと来ないところも少なくないとはいえ、図録も買ったのでまた改めて眺めながら考えてみよう。
わからないものをわからないものとして距離をとるのではなく、それはそれで向き合ってみるのも、結構いい暇つぶしになるよ。