奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
洋の東西を問わず最近ではさまざまな画家の絵を観るようにしているが、そうするとやはりこの画家さんの絵はなんか好きだな、と画家として好きというのが出てくる。
既に何人かいるが、その中の1人が奥村土牛という人だ。
初めて見たのは個人展ではない企画だったと思うが、その柔らかいというか、どこか朴訥としたような絵が印象に残ったのだ。
その時は動物の絵なんかも展示されていたわけだが、正直それらについては独特なものを感じたし、感動よりはデッサンは苦手なのかな、という感想だった。
ともあれ、舞妓さんの絵だったり、有名な渦潮の絵だったりは元より、なんだかつい見入ってしまうなといつも眺めていた。
そこへきてこの個人展になるので、これは良い機会と勇んで向かったわけだ。
奥村土牛―山﨑種二が愛した日本画の巨匠 第2弾―
今年は美術館の創立55周年らしく、その記念企画展ということらしい。
このひとつ前の速水御舟展に続き第二弾だそうな。
続け様に好きな画家の個人店とあり、私としても嬉しい限りだ。
【開催概要】
山種美術館では開館55周年を記念し、当館がその代表作を多数所蔵している日本画家・奥村土牛
(1889-1990)の展覧会を開催します。当館の創立者・山﨑種二(1893-1983)は、「絵は人柄である」という信念のもと、同時代の画家と直接交流しながら作品を蒐集しました。特に土牛とは親交が深く、画業初期の頃から「私は将来性のあると確信する人の絵しか買わない」と土牛本人に伝え、その才能を見出して支援し、約半世紀にわたり家族ぐるみの交際を続けました。(略)
本展では、《醍醐》や《鳴門》などの代表作をはじめ、活躍の場であった院展出品作を中心に、土牛の画業をたどります。
80歳を超えてなお「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」、「芸術に完成はあり得ない」、「どこまで大きく未完成で終わるかである」と語り、画業に精進し続けた土牛。近代・現代を代表する日本画家として、今なお人々に愛されている土牛芸術の魅力を味わっていただければ幸いです。
【開催期間】
2021年11月13日(土)~2022年1月23日(日)
出典:https://www.yamatane-museum.jp/exh/2021/okumuratogyu.html
山種美術館の創設者、山崎種二さんは元々証券マンであったらしいが、その傍らでこうした若手画家の支援を積極的に行っていたようだ。
そんな中でもこの土牛とは若い頃から目をかけていた画家の1人だったらしく、からの支え無くしてこの作品はなかっただろう。
芸術家にとって幸福な在り方だったろうな。
改めて広く彼の絵を見ていくと、冒頭に書いたようなことは失礼千万であったことはすぐにしれる。
101歳と非常に長生きながら、本当に生涯現役であり続けた作品は見応え抜群である。
個人的な見どころ
以前にも書いたが、個人にフォーカスした企画展では、その画家の歴史を振り返ることができるので、これまでと違う目線で見ることができるのが興味深いところだ。
他の作家の作品と並び立つことで際立つところもあるのはもちろんだが、この人が一体どういう世界を見ていたのか、そんなことに思い馳せながら見るのが面白いのだ。
特に、彼はただ目の前の景色を映すことよりも、より自分の内面世界で解釈したものをどう表現するかという視点で描いていたというので、それってどういうことなのかな、なんて思いながら見ていた。
こちらは琵琶の木と少女を描いたものだが、こういったモチーフは珍しいそうだ。
私も、一部を除いてあまり人物画のイメージはなく、どちらかというと風景画のイメージが強かった。
ともあれこの絵を見てみると、琵琶の木の描き方の緻密さよ。
この人の描く木のみきの感じが好きだ。
非常に写実的とも言えるし、反面ある種幻想的というか、どこか浮世離れしたようにも感じられる。
少女の顔はおよそ写実的ではないかが、素朴で絵を描くからと立たされてやや不満でもあったのかという感じもしないではない。
ある意味ではそれは対象の細かな観察と、内面を写すという観点では非常に見事な表現かもしれない。
琵琶の木だけでも見ているとなんだか不思議な気分にさせられる。
土牛は動物の絵も好んで書いていたようで、うさぎの絵も結構描いている。
こちらは後ろ姿を捉えているが、非常に可愛らしい。
私もこうした小動物は好きなんだけど、見ていて特に可愛いなと思う瞬間は、何考えているかわからないが何かに夢中になっているらしいと感じる瞬間だ。
虚空を漠然とぼーっと見ていたり、急に何かに反応したり、それでなぜか一生懸命な感じがなんとも可愛らしいと感じる。
こちらはさまざまな動物の中でも、特にそんなことを感じさせてくれるので、見ていてほっこりする。
ほかにも山羊や鹿、牛などさまざま描いているが、よくみるとそれぞれの動物の目線なんかもちょっとずつ違うので、実際に彼らが観察されている瞬間に思いお馳せると色々と想像させられる。
彼の言葉で印象的なものの一つが、絵を描く時には愛でる感覚を持って、その目で持って描く、といったようなことを言ったらしいのだけど、こうした動物に対する目線も会いに溢れているので、いずれの絵もどこかほっこりしたものを持っているのかもしれない。
それは動物を描くときだけでなく、内面化したものを描くというやり方は景色でも同様だ。
彼の代表作の一つである渦潮のこの絵も生で見ると圧倒されるものがある。
今でも名所の一つでもある鳴門の渦潮を描いているのだけど、実際に現地に赴いてスケッチなどは取ったらしいが、実際に絵画にしていく時にはアトリエに戻って記憶をもとに描いたとか。
作品自体は幾重にも絵の具を重ねて不思議な透明感や躍動感を描いている。
この画像を見るとまるで写真のようでもあるが、実際の作品は余裕で写真を超えてくる。
ちなみに、今回の展示ではデッサンも展示されているんだけど、こちらの方がよほど写実的ではある。
興味深いのは、実際の作品にする時には実は簡略化されたところもある一方で、より誇張(というとちょっと違うけど)されているところもあり、それが見事に表現として凄みを生んでいるのだ。
これが絵画における再構築か、と言うことも感じ取れる貴重な展示だと思う。
同じく私が思わず見上げてしまったのが那智の滝を描いたこちら。
間近で見ても距離をおいてみてもそれぞれに趣が違うので、しばらく眺めてしまった。
ぱっと見非常にシンプルに見えるが、雄大さのようなものが見れば見るほど感じられる。
この人の絵は見ていると本当に不思議な印象がするものが多く、やたら親しみを感じさせる一方で対象をそのまま描く以上に巨大さというか雄大さというか、そういうものを感じさせるのだ。
この頃はまさに印象派やセザンヌの影響なども受けて研究していたらしいが、なるほど確かにと思える表現が使われている。
その他にも展示されている姫路城を描いた「城」という作品も、構図的にやや珍しい感じのするアングルで描いているが、お城の聳え立つ感じが絶妙に表現されている。
そのほか山の絵においては完全にセザンヌを意識したようなものもあり、彼の画家としての探究心をよくよく感じられる。
ぜひ実物たちを見てほしい。
人物を描いたものにはこんな作品も。
あんまりいい画像がなかったのだけど、こちらは先にも描いた舞妓さんの絵だ。
まだ若いというよりも幼さのあるくらいの顔立ちだが、何より着物が実に綺麗。
深い黒の着物に、金色のツルがあしらわれているがらと、大形なくらいの帯も舞妓さんの華やかさの表現にもなっているようだ。
私が土牛の絵で最初に印象的だったのはこの絵だった。
なぜかわからないが妙にこの黒色に見入ってしまった。
今回はこれ以外にもバレリーナや力士を描いているものも展示されているが、いずれも写実性ではない面白みのある作品で必見である。
最後は代表作、季節外れだがこちらを。
京都の醍醐寺というところに植樹されている桜の木である。
あの太閤秀吉もめでたと言われている由緒ある桜らしいが、今では土牛の桜と呼ばれているとか。
桜の花も油絵のような量感たっぷりの描き方がされており、そしてこの幹ね。
この人は桜が好きだったんだろうなということも感じるけど、絶妙に寸尺がデフォルメされているようにも感じるが、決してこじんまりとはいない。
きっと画面の外にまで広がっていることは想像せられるところだ。
他の絵もそうだが、この人は描くときに、単に写真のように風景を区切るのではなくて、自分が見た時に本当に驚いたり感動したりした時の風景を絵に落とし込んだのではないだろうか。
だから素朴さの中に雄大さを感じたり、終始温かいものを感じるのではないだろうか、などと思えてしまう。
彼は100歳間近になった時にも、「今新しいことを試しており、なんだかうまくいきそうだ」と、その創作意欲は衰えを知らず、生涯絵を描きつづけたそうだ。
奥村土牛と音楽と
そんな土牛と音楽を考えてみると、どうしてもこの人が出てきてしまった。
英国が誇る生きる伝説、King Crimsonである。
ロックファンの間では、あのビートルズのラストアルバムを1位から引きずり落として新しい時代の幕開けを飾ったともいわれている。
音楽ジャンルとしてはプログレッシブ・ロックなどと呼ばれ、今では当たり前のようにジャンルをクロスオーバーしたものは存在しているが、ときは69年だ。
その時すでにロック、メタル、クラシック、ジャズなどさまざまなジャンルを取り入れた音楽と、世紀末感漂う詩を以て一世を風靡したのだ。
しかし、何がすごいって未だに現役バリバリで、このバンドの実質的な核であるRobert Flippというギタリストはすでに80間近、にも関わらず現在絶賛来日ツアー中で、12月上旬まで日本であちこち回っている。
ライブでは過去の曲をそのまま演奏するのではなく、バンドの編成も変わっているしメンバーも変わっている。
もちろん譜面通りのところはあるにせよ、間の即興パートは毎回変わるし、キャリアも長いから曲数はたくさんあるにせよ、ライブごとにセットリストは変えてくるし、だからファンは全公演に足を運びたくなる。
もっと驚きなのは、このコロナ禍をきっかけに毎週SNSで奥さんと一緒に音楽動画を上げており、本当にこの人の中にはずっと音楽がながれていて、しかも自分の中でこうしてみたいああしてみたいと膨らんでしょうがないんだろうなと思うわけだ。
多分生きているうちはずっとそんな感じなんだろうなと思うと羨ましい気持ちにもなる。
土牛も生涯現役、常に新しい表現を求めていたというが、きっとマインドは同じなんじゃないだろうか。
どっちもかっこいいジジイである。
まとめ
これぞ天命とばかり芸術に身を捧げるような人はいつの時代にも一定数存在している。
幸運な人は、それを応援して支えてくれ流人がいることで、その天命を全うできるのだろう。
果たして自分にとってまさに生きる時間とイコールな存在なんてものはあるだろうかと考えるといささか寂しい気持ちにもあるが、ともあれこうして楽しんでいる人を見るのはなんだか嬉しい気持ちになる。
山崎種二さんにとっての天命は、土牛をはじめ有望な画家を1人でも多くに日の目をみてもらい、将来にわたって作品が残ることを支援することだったのかもしれない。
それに見事に答えてみせる素晴らしい絵を残したのが土牛だったり御舟だったりといったものたちだったのだろう。
私はそんな彼らの残してくれた素晴らしい作品を見て、今の世界を少しでも明るい目で見る心を養うだけである。
河鍋暁斎 ―躍動する絵本
元々いこうと思っていた先があったが、今日で前期展示が終了とわかったので、急遽予定を変更、太田記念美術館の河鍋暁斎展にいくことにした。
行った。
河鍋暁斎 ―躍動する絵本
私は河鍋暁斎が好きで、以前サントリー美術館で開催された企画展にも行って、その時に買った図録を今でもたまに眺めている。
今回は彼の書いた絵本に焦点を当てた展覧会なので、はじめましての作品が多かった。
【開催概要】
幕末から明治にかけて、狩野派でありながら浮世絵も数多く描いた絵師、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい 1831~1889)。(略)
暁斎の絵を一冊の本にまとめて出版した「絵本」というジャンルは、これまでほとんど注目されてきませんでした。本展では、人物や動物、妖怪などを躍動感あふれる筆づかいで描いた暁斎の絵本を大量に展示することで、「画鬼」と称された暁斎の知られざる神髄に迫ります。
【開催期間】
2021年10月29日(金)~12月19日(日)
前期 :10月29日(金)~11月23日(火・祝)
後期 :11月27日(土)~12月19日(日)出典:
彼の絵がなぜ好きかといえば、なんとなくだがこの人は絵が本当に好きで、描いてるのが楽しくて仕方ないんだろうな、ということが伝わってくるように感じるからである。
なんでもそうだけど、楽しんでいる人の作品とか表現は楽しいのだ。
何より彼の絵はどこかユーモラスで、鬼や閻魔や動物、七福神のような神様を描いてもなんとなく間が抜けたところがあり、可愛らしくすらある。
今回は絵本ということで、かなりラフなものもあるだろうか、などと思いつつ。
個人的見どころ
この企画展では3つのテーマに区切って紹介されている。
画題は風俗から動物、風景から妖怪まで非常に幅広い。
この時代の絵本というのは、ストーリー仕立ての子供向け図書といったものではなく、単発的なイラストを集めたようなもののことを言うらしい。
それこそ有名なものは北斎漫画だが、あれもさまざまなイラストが描かれており、初心者にとっては手本帳でもあったそうだ。
ちなみに北斎と言えばその画力の高さも有名だが、この暁斎も画鬼と自ら称するほどに、べらぼうに美味かった。
こちらは骸骨の絵だが、めちゃくちゃ精緻な一方で思う様に踊ったり変なポーズを取っていたりと、真面目なんだがふざけているのかと言った感じだ。
本当は2つで1つの作品のようだが、これだけでも十分要諦は伝わるだろう。
この人はちょいちょい骸骨を描いているが、そのほとんどは遊んでいる。
組体操だろうか。
面白い。
またいかにも画家の頭の中をすかしてみるようなこんな作品も。
こちらは実線を黒で描きつつ、朱色で衣服を描いており、私のような素人には非常に興味深い作品だ。
考えてみれば当たり前かもしれないが、衣服の向こうがあの骨格が明確だからちゃんと人にみえるし動きにも躍動感がでるのだろう。
こういう形であえて描いて見せるのが面白いところだ。
こちらはもののけを描いているが、不気味さもありながらどこかおどけたモノノ怪の顔が可愛らしい。
この人の描くもののけは概ねこういったものが多く、また鬼や地獄の閻魔でさえもそうである。
ちなみに、暁斎はある知人で体が不自由になり働き口に困ったものに絵をプレゼントし、その絵を使ってその人は商売をすることができたので暮らしが助かった、なんて話もあるらしい。
他方で自宅が火事になったにも関わらず、その燃え盛る様を熱心に観察して家財道具も運び出さなかったので家人に怒られた、といったエピソードも残っており、いずれにせよかなりの変わり者だったことが想像に難くない。
しかし、そこまでして絵を描き続けるような人の描く作品が面白くないわけがなく、みていてついフフフとなってしまう。
河鍋暁斎と音楽と
そんな暁斎と音楽を考えるとなにがハマるだろうかと考えると、こちらなどいかがであろうか。
日本のロックを聞く人であれば知らない人はいないであろう、向井秀徳率いるZazen Boysである。
最近復活してすっかりアクティブなNunber Girlよりも、こちらの方がより向かいも遊んでいる感じがしてよいのではないだろうか。
楽曲そのものは非常にタイトでめちゃくちゃかっこいいのだけど、ライブではしばしば遊び散らかしている。
向井の気まぐれとしか思えないような音あてみたいなこととかよくやっている。
彼の言葉も独特だが、それ以上に音と戯れるのが好きなんだろうんだと思う。
今更ながら、若い人にもチェックしてほしい存在だ。
まとめ
先にも書いたが、楽しんでいる人を見るのは楽しい。
まして凄まじいテクニックを持っている人は、そこに驚きや感動ものっけてきやがる。
好きこそ物の上手なれ、とはよくいうが、好きすぎる人は世間的にはえてしてただの変態である。
でも、変態でいいじゃないか。
そんな変態達の発露を楽しく見るのが、凡人としてのせめてもの嗜みである。
後期にもまた行ってみよう。
速水御舟と吉田善彦―師弟による超絶技巧の競演―
おお
下書きのままなかなか進めなかったため終わってしまったが、とりあえず載せておこう。
なんでもそうだと思うが、凡そ表現と呼ばれるものについてはそのアウトプットが第一義なのは言わずもがなではあるが、作家の精神性というものも結構大事と言うか、それによって同じ表現が違う解釈を生むことであったり、見え方が変わったりということが起こるのが面白いところである。
私は昔から音楽が好きで、洋楽もよく聞くがいかんせん英語が堪能では無いので和訳を読んだり、あるいはアーティストのインタビューを読んだらしてその解釈を補完するわけだが、そうするとこの作品から受けるこの感じってこういうところから来ているのかしら、というのが見えてくる。
例えばNine Inch Nailsというアメリカのバンドは、歌詞は暗いし音も重たいし、パッと聴いたところでは陰鬱とした音楽であるが、しかしよくよく聴いてみるととてもポップだったり、特にライブではとてもアグレッシブだったりするのだけど、彼のバックグラウンドなんを知るとなるほどと思うのである。
ちなみに、かつてはヤク中でヤバかったが、今では映画音楽のスコアラーとしてすっかり有名だ。
しかも子沢山。
ともあれ、そうしたアーティストの内面もやっぱり興味の対象ではあるわけだ。
人間だもの。
さて、作品そのものの魅力はもちろんだけど、他方でその精神性でグッときたのが速水御舟だ。
デビュー当時からその技術力で多方面で絶賛さて、期待された存在だったようで、その期待に違わず素晴らしい作品を多く残しながら、40歳という若さでこの世を去ってしまった短命の画家である。
日本画家の多くは80以上とか100歳とかまで生きるくらい長生きだと言われている中で、圧倒的に短命であったわけだが、その画業は幅広く、作風も次々と変えながら独自の技法も確立して、着実な足跡を残した。
私がよくいく美術館が山種美術館という恵比寿にある日本画専門の美術館だが、そこで開かれた企画展がきっかけだった。
彼の残した言葉も作品紹介と合わせて紹介されていたが、こんな言葉がズバッと突き刺さってきた。
『梯子(はしご)の頂上に登る勇気は貴(とうと)い。さらにそこから降りて来て再び登り返す勇気は更に貴い』
彼の、つねに新しい画風、技術に挑戦し続けた彼の画業それ自体をまさに 体現していると言っていいだろう。
おお!とその瞬間痺れたね。
そんな彼の回顧展と、彼の弟子であった人の企画展が今回である。
速水御舟と吉田善彦―師弟による超絶技巧の競演―
【開催概要】
(略)当館のコレクションの「顔」ともいえる日本画家・速水御舟(1894-1935)と、その弟子の吉田善彦(1912-2001)に焦点をあて、彼らが生み出した超絶技巧による作品をご紹介する特別展を開催いたします。
御舟は、横山大観や小林古径らから評価を受け、23歳の若さで日本美術院(院展)同人に推挙されます。「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という本人の言葉どおり、古典を基礎に次々と新たな作風や技法に挑み、40歳で早世するまで日本画壇に新風を吹き込み続けました。
一方の善彦は、17歳で姻戚関係の御舟に弟子入りし、写生や古画の模写、作画姿勢などを学びます。また、戦中・戦後には、法隆寺金堂壁画の模写事業にも参加しました。(中略)
本展において、御舟の作品では、近年の調査で西洋の顔料を使っていた事実が判明した《和蘭陀菊図》をはじめ、金砂子を地一面に使う「撒きつぶし」を用いた《名樹散椿》【重要文化財】、本人曰く「二度と出せない」色で表した《炎舞》【重要文化財】など、また善彦の作品では、「吉田様式」を初めて用いた《桂垣》や、この技法を熟達させた《大仏殿春雪》☆、《春雪妙義》などを展示し、二人の代表作をはじめとする優品をご紹介します
御舟と善彦は、ともに伝統的な技法を土台に精緻で独創的なアレンジを加えて、それぞれ唯一無二の画風を確立した画家です。本展を通じ、御舟と善彦の師弟が追求した超絶技巧の世界をご覧ください。
【開催期間】
2021年9月9日(木)~11月7日(日)
出典:
これまでも何度か御舟の絵は見ているし、画集も買ったけど、その弟子も含めた企画展というのは初めてだ。
この吉田さんという人も始めましてなので、どんな影響を残したんだろうかというのも面白そうなポイントだ。
そして何より重要文化財にもなっている”炎舞”も改めて展示される。
また改めて見る中でどんな発見があるかも楽しみなポイントだ。
個人的みどころ
まずは速水御舟、なんといっても重要文化財にして1番の作品はこちらだろう。
私の待ち受けはこの絵なのだけど、こちらは画像と本物では見え方がまるで違う。
もっと言うと、展示環境によっても見え方が変わる。
私が最初に見た時には明るい中で他の絵と同様に展示されていたので、ほうとは思ったがそこまでインパクトを覚えたかと言えばそうでもなかった。
まぁ、他に見たいのがあったのでその時はそんなに一生懸命観てなかったんだけど。
しかし、最近は暗い展示室で、照明もピンスポット的に当てているので、非常に際立って見えるのだ。
まさに暗闇に煌々と燃える様を感じかれるので、この展示方法が正解だよね。
で、肝心の描き方だが、形の無い炎の描き方は時代や場所によっても変わるようだが、例えば仏教絵画では雲が渦巻いたような描き方がよく見かけるのだが、この炎舞も初見ではそれに倣ったような印象を受けたのだけど、じっくり観ていると全然違くて、
恐らく洋の東西を問わず最も炎を写実的に描いた作品ではないかと思えるのだ。
御舟自身、この絵を描く際には焚き火を焚いてひたすら観察した果てに完成させたと言われているが、たしかに炎ってこういう動きだよねと思う。
そしてそこに寄ってくる蛾が逆に浮世離れして感じられ、また周辺には薄く明かりがオーラのようにまとわりついていて、その描き方も見事である。
パチパチと薪を燃やす音も聞こえてきそうな不思議な静寂を生んでいる。
これだけでも見る価値は十二分にある。
御舟は若い頃からその才能が認められており、しかし新たな技法や画材などの研究もずっとしていたらしく、時代によって画風もどんどん変えていったことでも有名である。
そんな彼の画業を象徴するような名言があるのだが、私はそれを観て一気に彼のファンになった。
『梯子(はしご)の頂上に登る勇気は貴(とうと)い。さらにそこから降りて来て再び登り返す勇気は更に貴い』
守破離ではないが、物事を極めることそれ自体は素晴らしいが、それを捨ててまた別の道を登ろうとすることはもっと素晴らしい、みたいな話である。
こうした精神性には痛く共感したものだ。
炎舞のような写実的な作品を描く一方で、なんとも不思議な絵も描いている。
屏風に描かれた非常に大きな作品だが、なんとも幻想的と言うか、浮世離れしているというか、これは一体?とつい考えさせられてしまう。
御舟自身も自信作だったようで、この絵は後々の人が見ても面白いと思ってくれるだろう、と言った言葉を残したとか。
この絵全体としての面白さもある一方で、独自の技法も炸裂している。
画像ではわからないが、紫陽花の花の彩色において、独特の技法が用いられているのだが、このやり方については明らかになっておらず、御舟も誰にも教えなかってと言われているらしい。
絵の具に火を入れているのではないかとか研究はされているらしいが、絵を描くための技だけでなく、こうした技法も含めて表現を追求した人であったらしいね。
他にも静物画も多く描いているが、どれも唸るような作品ばかりだ。
ある同時代の画家は、彼の技術の何番の位置かでもいいから欲しいと言ったそうだ。
そんな才能にも努力にも溢れた彼は、残念ながら40歳くらいで亡くなっている。
日本画家の人って長生きする人が多いと言われているが、その半分にも満たない生涯であったのは悔やまれることである。
そんな彼の弟子が吉田善彦さんと言う人だが、この人はこの人で独自の技法を編み出して、それが吉田式などと称されるほど独自な方面で活躍した人だそうだ。
私はこの展覧会で初めて知ったのだけど、作風はそこまで御舟によるわけでもなく、写実性や絵に対する態度みたいなところを強く受け継いだのかな、と思って次第だ。
点描なども取り入れており、印象派の絵画のようだ。
この吉田さんの確立した吉田式というのは、金屏風の下地をシワクチャにしたものの上から描いていくような技法になるらしいが、うっすらと金色が透けており、また表面を引っ掻いたりすることで隙間からより鮮明に金地が見えることで独特な煌びやかさを見せるのである。
総じて淡い色合いは、モネのようでもあるかもね。
こちらも代表作とのことだが、画像だとはっきり見えない。
やはり本物を見てこそである。
微かな凹凸も含めた表現のため、足を運んでこそである。
速水御舟と音楽と
そんな超技巧派な2人と音楽を考えると、こんな音楽はどうだろうか。
日本のポストロック代表、toeである。
一聴するとシンプルながら、実はメンバー全員べらぼうに演奏が上手いことでも有名である。
彼らはそれぞれ会社をやったりエンジニアをやったりと、バンド以外にも仕事をしているためそんなに練習時間もじっくりと取れないのだけど、ライブではほぼ練習なしでも完璧な演奏をしてみせるのだとか。
自分たちの曲とはいえ、大抵の人はちゃんと練習しないとなかなかそうはうまくいくまい。
とはいえそれは背景の話なので分かりづらいと思うが、ひとまずはドラムの人に注目してみてほしい。
柏倉さんという人なのだけど、この人のドラムは歌うドラムとも言われており、大半がインストで歌のない曲の中で、彼のドラムがまるで歌のように響いている。
テクニカルなところはいろいろ語れるものらしいが、素人が聞いてもおお!?と思うのではないだろうか。
そうかといって過剰にテクニカルによっていくわけではなく、あくまで表現するための手段としてのテクニックというところがミソだ。
彼らのファンは世界中にいる。
まとめ
テクニカルなことはときに批判の対象にもなる。
技術に溺れて本質がないのではないかという話だ。
しかし、そうはいってもテクニックはある方がいいに決まっている。
そのことでできることは間違いなく広がるからね。
展示会は終わってしまったが、山種美術館のコレクションになっているので、折りに触れてまた展示されるだろうから、断片的にでもぜひ見てみてほしい作家である。
福田美蘭展 千葉市美コレクション遊覧
私は先月後半は転職に伴う有給消化で、短いながらに悠々たる日々を送っていた。
と言いながら、割と日々予定があり、土曜は昼間は寝ていたが夕方は友人と音楽ライブ、日曜はまったりしつつ美術館へ(こちらもまた書かねば)、昨日は次の職場へ赴き午後からずっと色々の話を聞いたりしていたが。
まぁ、気が抜けている段階で既に休日か。
ともあれ、午前は久しぶりに少し運動をして、昼前に外出、以前住んでいてところにほど近い通いだった店で飯を食い、そのまま千葉市美術館へ行ってきた。
都内に越してからは移動時間もかかるため、割と心しての移動だが、大学入学時からほんの6年くらい前までは千葉に住んでいたため、割と昔馴染みの土地であり、また図らずも高校時代に一度部活の大会できたのも千葉駅辺りだったので、なんとなくそんな思い入れや思い出のある地である。
別に何があるわけでもないエリアだが、そこはかとない街の景観こそがそれを感じさせるというもの。
といいつつ大分時間も経っているので景観は変わっており、駅はすっかり改修されて久しく出口がわからない。
またパルコも既にビルごと取り壊されている。
大学時代によく通っていたし、なんなら高校時代に来たのもここで、タワレコで頭脳警察とKing Crimsonを買ったのはいい思い出である。
しかし、時の流れは絶えずして、気がつけばそんな有様だ。
諸行無常。
ともあれ、今は私は全く知らなかったが、福田美蘭という人の個展、観るに日本画の方だらうか、などと言いながら馳せ参じた。
福田美蘭展 千葉市美コレクション遊覧
失礼ながら存じ上げなかったが、まだまだ現役の方なんですね。
日本画や浮世絵などをモチーフに、想像からひと手間加えて、言うなればリミックスしたような作品である。
【開催概要】
福田美蘭(1963-)は、東京藝術大学を卒業後、最年少での安井賞や国際展での受賞等、国内外での活躍を通して独自の作風を切り拓き、絵画の新たな可能性に挑戦し続けています。人びとの固定観念を覆し、新たなものの見方や考え方を提案する福田の芸術は、単なる絵画という枠にとどまらず、豊かな発想力によって独自の展開を遂げてきました。
これまでも日本美術をもとにイメージを広げた作品を多く発表してきた福田ですが、本展では、千葉市美術館のコレクションから、自らが選定した江戸から明治時代の美術をきっかけに、新たに創作された作品を中心に展示します。(略)この作家の新作とともに、発想元となった千葉市美術館のコレクションも同時に展観いたします。
本展は、2001年の世田谷美術館、2013年の東京都美術館以来の大規模な個展となります。福田の飽くなき探究心をもって制作された作品を通して、コレクションの意義を見直すとともに、美術館という場における私たちの体験そのものを問い直す契機になればと願っています。【開催期間】
2021年10月2日[土] – 12月19日[日]
出典:https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/21-10-2-12-19/
正直はじめのうちはあまり意味が分からなかったが、ご本人による解説も見ていく中でなるほどそういうことかとわかってくる。
そもそもご本人の弁であるわけで、おかげでこの作品はどんな着想で制作したのかというのは興味深い。
その解説も読んでいる中で思ったのは、いい意味でのゆるさというか、この人の発想なんかが面白く、つい途中から笑いながら見るハメに。
絶妙にふざけている。
個人的見どころ
千葉市美術館収蔵のコレクションから本人自ら選出したという作品群は、総じて浮世絵をモチーフにしたものが多い。
例えばこちら。
左側は月岡芳年という人の「けむたい」という版画作品だが、こちらを元に制作されたのがみ右側の作品である。
一見模写かと思われるが、よく見ると煙の形が五輪マークになっている。
この作品はまさに東京オリンピックの開催の是非が語らえれていた頃に制作されたので、コロナのおかげで政治家にとっても世間にとっても煙たい存在になってしまったことを皮肉っている。
こちら以外にも五輪をモチーフにした作品はあるんだけど、ズバリが画像で見つからなかったので元ネタのみ紹介。
恋に狂った八百屋のお七という娘が、恋人に会いたい一心で江戸に火を放ったという大事件を扱った作品だが、こちらも東京五輪と組み合わせた大作を展示しているので、ぜひチェックしてみてほしい。
浮世絵だけでなく、水墨画をモチーフにした作品も多く発表しているが、こちらは浮世絵以上に渋い表現なのでぱっと見でわかりづらい分、背景を理解すると殊更コミカルに映るのが面白い。
こちらは蘇我蕭白の作品をモチーフにしているが、本来は力強い獅子のはずがはたはたとはためく蝶に怯えているという元々コミカルな作品だが、こちらは屏風なっている。
屏風は3つ折りになっているので、しまうときには絵画面が接するようになるのだけど、この獅子の面についてはそうして畳むときに蝶と獅子はさらに接近して、獅子にとっては蝶がさらに迫っている状態になる。
そこで、畳まれた時の場所に蝶を書き込んだのが福田氏の作品だが、こちらは絵画の中の物語と屏風というそことは別の世界線をつなげたメタ的な視点の表現である。
この絵を眺めているときに、畳んだらもっと近くなって気の毒だな、と思ったところからの着想だそうな。
ちなみに画像はもとの絵の画像なので、ご容赦願いたい。
そのほかにも春夏秋冬の風景を描いた作品の中に文字を忍び込ませてみたり、琳派のエッセンスだけを取り出して現代的、というかなんというか、ともあれその表現のためにほうれん草を並べた絵をとってみたり、いずれも視点が絶妙にふざけている。
本人が本当にふざけているのかは知らないが、思わずふふふとなってしまう作品である。
正直絵だけを見たときには一瞬よくわからないものも多いのだが、丁寧に本人の解説がついているのでそちらも合わせて見ていくと3倍は面白いだろう。
展示の最後にはこんな作品が。
東京五輪でも海老蔵さん(もう名前は変わっているが)が睨みを効かせるパフォーマンスをして、各所で疑問の声も上がったわけだが、こちらはその睨みを描いた作品。
さまざまな厄災を振り払うといった意味があるらしく、しかしこちらは誰がやってもいいものではなく、いわば一子相伝。
團十郎だけが許されたものであるため、開会式でも後継者である海老蔵さんが登場したというわけだそうな。
こちらの作品は、このコロナの厄災を振り払ってくれ!といった思いでえがかれた作品で、なかなかリアルで拝むことは難しいからせめて絵画にてというわけだ。
面白いのは、この絵の傍には目元だけを切り取った葉書サイズの印刷があり、「お守りとしてご自由にお持ちください」と書かれてある。
実にユーモラスだ。
福田美蘭と音楽と
さて、そんな福田美蘭と音楽を考えてみると、こちらなどどうだろうか。
本当はVo酒井さんのやっているthe juicy looksがあるとよかったがなかったのでこちらで。
mooolsは知る人ぞ知る日本のオルタナロックの雄で、その交友録は国内外問わず広い。
ブッチャーズ世代の少し後輩に当たるそうだが、その界隈ではかなり評価も高いのだけど、一般への認知と人気は残念ながらそれほど高くないというのが実際だ。
しかし、楽曲はすべからく素晴らしく、特に彼の書く詞は詩集が出るくらい文学的なものも多い。
他方でどう考えてもただふざけているだけとしか思えないものもあるので、聴いていて楽しくなってくる。
そしてthe juicy looksではTシャツのおまけとしてCDをつけているのだけど、さまざまな音楽を元ネタに絶妙に変換した作品を収録している。
まあ、著作権の関係でリリースは難しいだろうが、その一部はこうしてYoutubeで聴くことができる。
こちらはかのDaftpunkの"Get Lucky"のカバー?だが、歌詞は意味不明だ。
先日the juicy looksのリリースイベントでは自ら楽曲解説がなされたが、そうして聴くとなるほどそういうことかということがあり、また違った形で作品を楽しむきっかけになっている。
表現は製作者の意図とは独立して受け取る側の多様な解釈を生むものであるのでそれはそれとして楽しむものではあるにせよ、やはり制作者の思いはそれとして聴いてみたいものである。
それにより、なるほどそういう見方があるのか、といった作品そのもの以外に制作者、アーティストの目線を推し量れるのも面白いのである。
コミカルな表現や、ふざけていることは世の中的には真面目に受け止められなかったり、ともすれば批判的に受け取られることもあるけど、本質的にはそれはそれとして真面目な表現のひとつではないかと個人的には思っている。
なにが言いたいか伝わるだろうか・・・。
まとめ
芸術は本来高尚なものでもないし、一部の特権階級のためのものではない。
上手い下手はあるし、やっぱり表現することが上手な人はいるからそれが才能と呼ばれるのだろう。
とはいえ、作品自体に落とし込まれたときに勉強しないと理解できないばかりではなく、パッとみてなんとなくでも面白いが入り口で十分である。
勉強すればもっと面白くなるだけなので、だから色々と掘り下げたくもなるわけだ。
こちらの展覧会は12月半ばまでやっているので、冷やかし半分でぜひ覗いてみてほしい。
単純に鮮やかさもあったりポップさも満載なので、普段絵画なんて見ないわ、という人でも楽しめると思う。
番外編2 -富山をウロウロする
前日に引き続き北陸にて、今日は富山県である。
前日に入り、例によって夜はフラフラと飲み屋を探す。
私の方針として、必ずしも特産物を食べたいわけではなく、その土地土地の地場のお店であれば良いのだ。
むしろ観光化された名産よりも、よほどその方が美味しいものにありつける。
と言って入ったのは焼き鳥屋、本当は他に入ろうと思った店があったのだが、満席の様子だったので。
とはいえこの店も全然悪くなく、まあ特別美味いというわけでもないが生はしっかりと冷えており、いい感じに放っておいてくれて丁度いい。
なんとなく頼んだいたわさが、やたらしっかりした蒲鉾だったのだが、これは特産品らしいね。
歯応えがしっかりしていてびっくりだ。
それにしても、いつ頃からかすっかり胃が小さくなってしまっており、そんなに量が食べられないのが口惜しい。
とはいえ満腹に食べられるのは良いことだ。
飯を食べてからは、良いさましも兼ねて富山城公園へ。
多分8年かそこら前に一度出張で富山にはきたことがあったが、その時以上にお城の形をしたただの公園になっている。
時間にして確か21時前だったが、既に人気も少なく、驚くほど静かであった。
ちなみに飲み屋でも隣席のグループが話している声を聞くともなく聞いていたが、みんな20時までに飲み終えて帰宅することが既に習慣化しているそうだ。
普段仕事をしていると、それくらいまでやっているのが普通で、むしろそこから飲み始めるのが当たり前の感覚なので、ちょっと驚いたくらいだ。
ともあれ、お陰で暗がりの中、しばらく空なんぞをみながらぼーっとしたのだけど、これが存外いい時間となった。
そもそもこういう時がほしくて私はウロウロしていたのであったと。
その時一筋の流れ星が見えた。
初めてみたな。
そんなこんなで宿に戻って、サウナと風呂にはいつまでこの日は就寝。
翌日は朝からまたウロウロ。
まずはガラス美術館へ。
ガラス工芸についてはちょいちょい展示の中に入っているものを見る程度であったが、今まさに現役の人たちの作品を、これだけまとまった単位で見るのは初めてである。
ガラスなんて、私にとっては食器でしかなかったのだが、これがみているとなかなかに面白い。
オブジェというか、ガラス芸術という感じなんだろうけど、いわゆるガラスの感じと全然違うテクスチャを見せたり、繊維のような見せ方や中には布とか発泡スチロールのような質感になっているものまでさまざま。
吹き方とか彩色といった技術的な要素もさることながら、ガラスの種類もいろいろあるらしく、それによっても具合が変わるのだそうだ。
複数のレイヤーを作って、階層的な光を見出すなどは観ていてシンプルに綺麗だなと思ったし、これどういう構成かしら?ということも多方面からつい眺めてしまう。
そうすると、なるほどここにこうやって色をつけるとこう見えるのかとか、光の入り方でもだいぶ違うぞとか、そういうのが面白いね。
こちらは小島有香子さんという人の作品だそうだが、このミニチュアがあったらぜひ飾りたい一品だ。
ちなみにショップで彼女の作品を使ったアクセサリーがあったのだけど、シンプルな造形と光の具合でキラキラする感じなど品があってよかった。
嫁や彼女にはこういうのが似合う人が、多分好きだ。
また、名前を忘れてしまったのが口惜しいが、多層的にガラスを重ねた各レイヤーにそれぞれクレーターのようにくぼみをつけたような、見た目は水瓶のような作品があったのだが、これもよかった。
上から見るとクレーターの影で水滴が落ちていくような見え方になり神秘的。
多分写真で見ても本質は伝わらず、適切な照明のある環境でこそ真価が伝わるものだろう。
絵画でもなんでもそうだけど、やはり芸術は直に触れてこそだ。
なんとなく立ち寄っただけだったが、思った以上に楽しめた。
ちなみにこの建物はかの隈研吾さんが設計したもので、建物自体もオシャレでした。
美術館を出ると、駅を経由して海辺らへ。
路面電車に揺られながらというのもいいですね。
今日のテーマはあえて何もしない、ということなので、何もなさそうなところへ。
と言いつつ調べたら一応観光ポイントはあったので見てみる。
岩瀬浜というところだが、ここはわずかながら昔ながらの街並みを残しており、地元の名士の家を中心に古い街並みを見ることができる。
この中に銀行があるのだが、その佇まいがナイスだった。
ちなみに中は見慣れたいつもの銀行だった。
ほんの百数十メートル程度なのですぐに通り過ぎると、お腹も減ってので通りにある飯屋で昼食。
食べ終えるとそのまま改めて海岸へ。
海水浴場になっているエリアのようだが、季節は既に秋だ。
すっかり閑散としたところだが、丁度座るにも良さそうなポイントを見つけてしばし惚ける。
周りにはトンビやカモメ、そしてカラスにスズメと様々な鳥が飛んでいたが、たまにすぐ近くを飛翔するのでなかなかの迫力である。
と、不意に2羽のカモメが近づいてきた。
本当は動画も撮ったのだけど、何かを期待するように近づいてきて、その後1羽は私が去るまでずっと2mほどの距離のところにいた。
君はひょっとして何かの生まれ変わりだろうか。
そんなイベントもありながら、小一時間ほどゆっくりして駅へと帰ったのであった。
そんなわけで東京への新幹線を待ちながらせっせと書いているが、幸い天気も良くて、いい感じにリフレッシュもできた。
やはりたまにはこうして見知らぬ風景の中を歩くことも大事だよね。
たまに思いついたように奥多摩へ出かけることはあったが、全く違う景色を行くのもまた一興。
特に最近は美術館であればとりあえず覗くということも楽しいので、どこに行ってもそれなりに楽しめるのである。
来週からは新しい職場になるので、残りの休みで整えて、準備していこう。
楽しい2日半でした。
番外編1 -兼六園をウロウロする
現在絶賛有給消化中のため、思いつきで実家からの足で金沢へ。
昔に行ったことがあったかもしれないが、記憶にはないエリアである。
金沢は石川県にある、というのはご存知だろうか、などと言ったら怒られそうだが、しれっと金沢と冒頭から書いてしまった。
ともあれ、普段は美術作品についてあれこれ書いているのだけど、たまには景勝地についても書いてみよう。
とか言いながらただの旅日記だろうが、まぁいいだろう。
夕方頃に現地入りしたため、その日はとりあえずどこかで飲むということだけを決めていた。
温泉、サウナ付きの宿を取ったので、それも一つの楽しみ。
在職中は忙しくて気がつけば太ってるわ目が痛いわ腰も肩も痛いわで、健康的にも良くなかったのでリフレッシュだ。
ともあれまずはホテル周辺をフラフラしながら、ふと目に入ったおでん屋へ。
時間はまだ17時になったばかりだ。
既に客も入っており、調べるとそこそこ有名店らしい。
おでんが金沢の名物の一つらしいので、ちょうどええやんけと。
おでんの高砂という、愛想があるんだからないんだから絶妙な大将がいるが、ともあれいくつかチョイスして食べながらビールで流し込む。
これが悪くない。
大食漢でもないのでそんなにたくさんは食べられないが、ともあれ王道から地のものまでいくつか食べたものはいずれも美味しかった。
1時間半くらい飲んでいたが、すっかり腹一杯だ。
その足で腹ごなしもしながら川縁をしばしウロウロ。
雨が降ってないと良かったんだけどね。
宿に戻って暫くはまったり過ごして、少し落ち着いた頃合いを見てサウナ&風呂へ。
実はサウナ初めてなのだが、正直だいぶ削られ、整うまでには至らなかった。
とはいえ温泉に浸かりながらしばしいい気分だ。
で、風呂から出るとラーメンが食べたくなったので再び外出、時間は夜9時くらいだが、驚いたことに店がほとんど閉まっている。
一応事前に調べて行ったのだが、悉く閉まっておりガッカリさん。
ようやく見つけたのはかなりコッテリ系だったが、まあ現地にある店ならばとそこに入る。
いわゆる二郎系的なやつが売りらしいが、さすがに1番あっさり目のやつを食べてきた。
帰りはまたユラユラしながらだったが、あの辺りは加賀百万石、前田家の領地にてまだ武家街の佇まいが幾らか残っている。
街灯の灯に照らされた街を見て1人ふむふむとか言ってみる。
でも綺麗でしたね。
翌日は朝から近くの市場で朝食。
美味しい海鮮丼をモリモリ食べて、コーヒーなんぞを飲んでから出立、コロコロを弾きながら兼六園を目指す。
経路的にまずは金沢城を経由、コロコロが重いし煩い。
前日は雨だったがこの日は快晴、めちゃいい天気だ。
せめてそれだけが幸いか。
コロコロは重たいが景色は晴れやか、さすが大名のお膝元、いい塩梅だ。
修学旅行か遠足か知らないが、小学生や中学生の集団も。
雲もいい感じでしょ。
段々足は重くなっていくが、ようやくコインロッカーを見つけてそこに荷物をぶち込むと、とても足も軽やか。
晴れて兼六園はひょいひょいと回ることができた。
それにしても大きいね、兼六園。
平日にも関わらず結構人出もある。
カップルと家族ばかりなので、少しだけ寂しい気持ちにもなったが、むしろこれから頑張ろうという刺激として受け取る。
修学旅行かなにかの集団ともすれ違いながら、一人で頭と唸ってみる。
穏やかに晴れているので、水面に映る景色もクッキリと、まるでモネの絵のようではないだろうか、だろうか。
最近日本美術もよくみるので、つい浮世絵的な構図も意識したりしてね。
中にはしばしば茶屋もあったので、そこで休みながらあんころ餅を食う。
名物と謳われていたが本当だろうか、まぁ割と街のところもギュッとしてて旨かったが。
林があったり池があったり、時には大木もあったりと、なかなか飽きさせない構成になっている、が、おそらく植えた当時はまさか支えがないと立ち行かないほどに成長するはとは思っていなかったのではないだろうか。
中にはスッと真っ直ぐに立つ木もあり、やはりつい目がいってしまう。
どっかのおじいちゃんが木に負けじと力強く立っていたので、つい撮ったしまった。
顔は写していないので景色の一つとしてご容赦願いたい。
それから重要文化財にもなっている前田家の邸宅も観てみる。
こんな広い家、いいよねとか思いつつ、そもそも庭の規模がヤバいんだったとか1人でブツブツ言いながら眺める。
日本家屋はやはりデザイン的にも良いよね。
何より庭がいいね。
そもそも庭の中にある家の庭て。。
ほぼほぼ観終わったので、静かに帰路につきつつ、やっぱ長いなとか思いがら頑張るのであった。
それから本当は21世紀美術館とやらに立ち寄ろうとしたのだけど、回り方を間違えて入口が見つからず、そこで図らずも目に入った能楽美術館に立ち寄ってしまった。
最近になり日本絵画は楽しんでみているが、その派生とばかりに他の伝統芸能にも徐々に興味を示し始めているが、そんな中で能と歌舞伎も近々観たいなと思っていたところであった。
幸い人気もないので、これ一つと。
能の人間国宝の人にまつわる企画展をやっていたのだが、正直よくわからなかった。
それでも、能面の役割や意味などは垣間見ることもできたし、それによりやっぱり一度は観てみたいなと思ったのであった。
すっかり疲れ切った私は、ひとまず駅まで行って、昼飯に現地のラーメンを食べて、そのまま富山県へ入った。
特に目的はなくて、ただなんとなくなので翌日の予定はまだないが、とりあえず酒を飲みながらこれを書いている。
いずれにせよ明日には東京へ戻るので、せめてゆっくり過ごしたいところである。
なんだかバタバタしているが、それでもたまにはこうして違う景色の中でゆるりと過ごすのも良いですね。
まだまだみていないところは沢山あるので、次は誰かと来れると良いよね。
酔いが覚めたら風呂入ってまた飲み直そう。
蘇我蕭白奇想ここに極めり
私は現在転職に伴う有休消化により、少しくゆっくりした日々を送っている。
それで帰省もしようかしら、と言って旅に出てみたりもしているが、その一環で普段出向かない美術館にも行ってみようと足を伸ばしてみた。
そこで赴いたのが、名古屋にある愛知県美術館というところ、ちょうど蘇我蕭白の展覧会を催しており、以前に上野で少しだけみたことあったが、個展としては初めてと言うこともあり、いったろうやないかというわけだ。
美術展そのものももちろん面白いし、それが本懐であるのは間違いないが、美術館そのものの魅力もやっぱりあるものだ。
そもそも蘇我蕭白という人は、元はといえば奇想の画家として紹介されたことに端を発し、今では世界的にも有名な伊藤若冲らとともに、昭和のある研究者により見出されたことが注目をされる様になった端緒である。
その画風はグロテスク、しかし確かな実力を示すものを持っていたからこそ、今日に至るも注目されているという訳だ。
断片的には方々で紹介されていた存在だが、図らずもまとまって見る機会とあらば、ぜひにとなるわけさ。
奇想ここに極めり
【開催概要】
力強い筆墨と極彩色で超現実的な世界を描き出した曽我蕭白(1730-81)のあくの強い画面は、グロテスクでありながらおかしみもたたえ、見る人をひきつけて止みません。本展では、強烈な印象を与える蕭白の醜怪な表現を紹介すると共に、その原点となった桃山時代の絵画、そして江戸時代初期の絵画との関係を掘り下げることで、蕭白がいかにして型を破り、奇矯な画風を打ち立てたのかを明らかにし、また晩年の作品への変化を通して画業の到達点を見定めます。
【開催期間】
10/31-11/21
出典:https://static.chunichi.co.jp/chunichi/pages/event/soga_shohaku/
得てして変態と呼ばれる人は、ただ単に同時代での無理解が故であったりするものだ。
およそ芸術がそれを超越する存在であれば、だからこそ今日に評価される事もあろう。
まあ、彼の作品は今見てもまあまあグロテスクであり、他方では何かの本質を捉えているようにも感じられる。
それも作品としての魅力であるわけで、そうして人により評価が割れるからこそ今日的にもなお興味を誘う存在なのだろう。
個人的見どころ
この展覧会では初期から晩年の作品まで、さすが個展といった感じで網羅されており、その作風の変化を追えるのも面白い。
彼の代表作といえば、やはり面妖な人物を描いたものたちであろう。
冒頭に展示されている作品だが、水墨画が多く紹介される中でかなり彩色も鮮やかな作品。
仙人たちの顔がいかにも面妖だが、何より子供が可愛くない。
他の作品を見ればわかるが、どうしてもこうとしか描けない訳ではないのである。
こちらも上野でも展示されていた作品だが、こちらは割と子供らしい子供だと思う。
仏教画としてはなかなかアバンギャルドなものらしいが、鬼の青と童子の赤い衣の対比も鮮やかである。
動物の絵にしても同様で、この人はべらぼうに絵が上手いので写実的にも描けるはずなのだが、敢えて気色悪く描いているのかしら、というものも多くみられる。
最初の絵においても、右端の方に天女?と蝦蟇仙人が描かれているが、その傍らに爬虫類の如きが描かれているのだけど、こいつがまた気持ち悪い。
是非拡大してみてみてほしい。
こちらは有名な作品だが、独特のタッチながら迫力のある力強い絵である。
彼の水墨画は線も太く、濃淡のはっきりしたものが多いのだが、そうかと思えば枝葉の描き方はとても繊細で合ったりするため、そうした対比もおもしろい。
中にはとてもコミカルというか、親しみやすかったり可愛らしかったりするものもある。
こちらは獅子の群れが石橋を渡らんとしているところだが、顔の基本は先の唐獅子同様で迫力があるが、あの中の文脈のせいかなんだか情けないように見える奴もいて面白い。
また勢いよく登るもの、びびってる風なもの、落っこちていくものなどさまざまおり、そうした躍動感も見どころだ。
この人は絵を描くのが好きだったんだろうなというのをなんとなく感じるような楽しい絵であらように思う。
ダイナミックな絵が目を引く一方で、山水画と呼ばれるいわゆる風景画は、輪郭線もはっきりしており、ある程度補修されているところはあるにせよ、非常に几帳面さすら感じるものが多い。
同じ画家の作品なのかと訝る思いだ。
奇想の画家と紹介されたことで、ある種強烈な絵が代表作として紹介されるが、一連を見ながら感じたのは彼なりに何か本質を描こうとしたのかな、ということである。
詳しい解説とかはあんまり読んでないので的外れかもしれないが、可愛くない子供や醜悪とすら言える老人たち、他方で絵面自体は大きく変わらないはずなのにどこかほっこりする場面も多く描かれており、そこに一面的でない、また絵画表現というものがあるように思うのである。
展示作品も多く、彼の師匠と考えられている人の作品も展示されておりボリューム満点である。
期間中2回も展示替えがあるというが、流石にただ足を運ぶのが難しいのが悔やまれる。
蘇我蕭白と音楽と
面妖さとある種露悪的、しかし抜群のセンスも技術もあるからこんな人はどうだろうか。
エイフェックスツイン window ricker
ご存知アンビエントテクノの御大、Aphex Twin である。
露悪的なものを選ぶとしたら、やはりこの"Window Licker"だろう。
曲そのものはスタイリッシュでもあるが、しかしこの映像の気色悪さよ。
観る人を嫌な気持ちにさせるための表現ではないだろうか。
ナイスバディな女性の顔がみんなAphex Twinの顔になっている。
彼はしばしば自分の顔をコラージュしたようなアートワークを作っているが、笑顔の歪んだジャケットはとても有名だし、別の曲では子供の顔がみんなこうなってる。
かといってそんな表現ばかりでもなく、むしろロゴはめちゃスタイリッシュでかっこいいし、アルバムごとにもジャズ的な要素を入れたものもあるし、時には別名義でしれっとリリースして世間を騒がしたりしている。
また人物に触れても奇人との評判がもっぱらで、テレビの砂嵐の楽しみ方をビョークに説いたとか、ライブ中犬小屋に入っていてずっと出てこないとか、それどころか本人ではなかったのではないかとか、戦車を買ったとか、何かとエピソードも満載である。
数年前のフジロックで来日したが、その時のパフォーマンスは謎にマニアックでコミカルながら不気味な映像が話題をさらった。
しかし、本質は非常に素晴らしい音楽家で、息をするように曲を作っているような人であるらしい。
好きこそ物の上手なれ、変態くらいがちょうどいいのかもしれない。
まとめ
わかりやすさは必ずしも親しみやすさではない。
見た目に美しいばかりが美しさでもない。