パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展—美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
現在退職に伴い、ちょっとずつ有給を消化している。
別に会社に行ってももうやることはないのだけど、上司の不手際が満載なので急激に何か降ってきそうで面倒を予感しているが、あえて手を出していない。
どっちにしろ来月から急になんて無理なんだから、せいぜい焦ってくれ。
一応手伝うことはできるからさ、てな。
そんなわけで、休日では混みすぎるだろうと思って上野の森美術館でやっていたモネ展のチケットをとって行ってきた。
が、こんな平日にも関わらず人が多すぎて、ずっと周りに気を使うような環境。
印象派、特にモネの絵なんて近くで見て遠くで見て、そのコントラストが面白いのに、そんなことを楽しむ隙間もないくらいだ。
以前にこの会場でやったフェルメール展も行ったのだけど、その時も酷かったからな。
時間指定なのに溢れすぎて、どれだけ商売っけ出すのかと。
ちなみにチケット代はその時よりもさらに上がっているにも関わらずこの体たらく、そりゃ色々金はかかるんだろうけどさ。
なんかそんなことを思ったら全然楽しめなくて、15分くらいでざっと見てさっさと出てきてしまった。
もう2度とこの会場には足を運ばないだろうな。
しかし、なんか消化不良気味だったので、どうしようかしらと思案した挙句、近くの西洋美術館で開催されていたキュビズム展へ行くことに。
企画展自体も面白かったし、常設展なども同じチケットで見られたので、結果的にこちらの方がはるかに楽しめた。
一応言っておくが、モネの絵は素敵なんですよ。
パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展—美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
長いタイトルだ・・・。
それはともかく、キュビズムといえばピカソとブラックが2大巨頭で、その影響を受けた表現は数多。
日本にもいるし、それこそ印象派〜その後みたいな企画では確実に出てくるのでもちろん知っている。
特に著名なピカソの絵に見られるように、子供の落書きとか言われるように、ぱっと見よくわからないというのが正直なところだ。
それこそ専門的なところから引用すれば、色彩についての追求が印象派という動きであれば、形態の追求に向かったのがキュビズムという。
実際あの不思議な絵は、3次元のものを2次元に落とし込むときの一つの方法として開発されたと言われているらしく、確かにそう感じるところもある。
ただ、色々見ているとそれだけでは理解できない世界が盛りだくさんだし、なんならピカソの相方的なブラックの絵はまた違う動機で描かれているようにも感じる。
私にとっては未だ理解できない領域で、まだ抽象画の方が思いを巡らせられるくらいだ。
なので、これを機にちょっとでも理解を深めたかったのだ。
【開催概要】
20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。
西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。(中略)
20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。
【開催期間】
2023年10月3日(火)~ 2024年1月28日(日)
出典:
【公式】パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ|国立西洋美術館
キュビズムのよく知られている歴史だけでなく、その影響を与えた、受けた画家なども広く紹介されおり、またそうして広がるにつれて体系化され、ある種の手段になっていくような様が面白くもあった。
ヘタウマとして今や人気画家の一人、アンリ・ルソーも当時はピカソが大きく評価したことで名が知れたらしいが、その因果律も崩壊したような世界観は、確かにキュビズム的な着想に影響を与えたのかも知れない。
改めてみると不思議が絵だしな。
ちなみに結論から言うとやっぱりよくわからなかったのだけど、ともあれ絵画の自由性がますます広がったのは間違い無いだろう。
個人的みどころ
まず歴史を振り返るような展示構成がわかりやすくてよかった。
そもそもの着想の大源流は近代絵画の父と呼ばれるセザンヌだ。
「自然を円筒形と球体と円錐体で捉えなさい」というのは有名なセザンヌの言葉だが、まさに形態的に捉える際の一つの大きな示唆となっており、バウハウスや抽象絵画にも大きなヒントになっているのだから、そりゃ近代絵画の父と呼ばれるよな。
いろんな展示会で必ずと言っていいほど展示されている画家の一人だが、見ていると不思議が感じがするんですよね。
写実的といえばそうだけど、そうでも無いといえばそうでもない。
筆の運びを見ても一定の規則を持っているように見えるので、すごくガチッとした印象もあって、見ていると不思議な感じがする。
また先のルソーも、確かにこの文脈で見ると示唆を与えた可能性はあるなと。
昔テレビ番組の企画で、画家にルソーの模写を依頼するというのがあったが、そこで印象的だったのが「ルソーは難しい、だって下手だから」というコメント。
デッサンが狂っているとかそういう次元じゃなくて、例えば普通陽の光は上から注ぐので、影は下にできるし、一定の方向にできるものだが、ルソーの絵画にはそんなものはない。
上記の絵も、猿がオレンジを食べているらしいが、どうみてもピンポン玉にしか見えないし、生い茂る草も写実的なようで現実的でない。
結果的にだろうけど、空間の空間性みたいなものを排除しているあたりが独自性なのだろう。
それが図らずも大きな示唆になったのだから、何があるかわからないものである。
こちらはジョルジュ・ブラックの作品だが、国内の美術館が所蔵していることもあってかよく見る作品だ。
ブラックは静物画においてはギターをしばしば描くのだけど、端的に言って何が書いてあるのかよくわからない。
ピカソよりもカット&ペーストのような感じで、未だにどう見ていいものか思案してしまう。
形態の再構築というなら、どういう再構築なんだと。
難しい。
こちらはピカソの楽器をモチーフにした作品で、ブラックと画風が似ている一作だ。
ヴァイオリンどこだ?
一つ一つの絵の前でいちいち立ち止まりながら、これなんだ?なにがどうなってこうなった?とずっと頭を捻っている始末。
よくピカソの絵を見て、なんでもいいんだ!という衝撃を受けたみたいな話をする人が芸能人でもいるが、本当にそうだろうか。
もっと強烈な意図があってやっていたはずなんだけど、だとしても何がどうなるとこうなるのかさっぱりわからない。
こうした彼らの活動が徐々に広まるにつれ、さまざまな影響を与え始める。
こちらはファン・グリスという人の作品だが、楽器好きなのかな。
ともあれ、グラスは割とわかりやすく認識できるが、楽器だけは分解されている。
こちらはジャン・メッツァンジェという人の作品だが、この頃になるとよりキュビズム的な手法がより体系的に整理されるようになったとのことで、ある意味では日本画家で言われるキュビズム的な絵画になっている。
ただ、個人的にはキュビズムというよりはセザンヌの提唱した理論を推し進めたような印象を受けた。
言い方は悪いかも知れないが、単に単純化して抽象度を高めたような感じというか。
わかりやすいが、ブラックやピカソが探求したベクトルと同じだろうかと。
もう少し詳しくいらべないとわからないけど、どうなのかなと見ながら思ったものだ。
芸術の世界ではしばしばあるけど、当初は必然であったはずの表現が、いつの間にか様式美と化すような現象とでも言おうか。
いいか悪いかは別にして、そのことにより広がっていく部分もあるので、それはそれとして楽しめるのはあるのだけどね。
ちなみに、便器に『泉』と題して発表したマルセル・デュシャンもキュビズムに影響を受けた芸術家の一人で、実際に絵画も多く残している。
そのほかにも個人的に意外だったのは、彼もその影響下にあったこと。
確かに絵のタッチなんかはその影響を見てとれるが、ある意味では手法的な解析が進んだからこその影響もあったのかも知れないね。
あとは私の知っていた中ではイタリアのモディリアーニなんか影響下にあったというから、やっぱり大きな契機の一つだったことは間違いないだろう。
作品数としてはピカソ、ブラックはじめ、そこからジャンルとして発展させた画家や、その影響の元活動していた画家など多岐に渡り、まさに一つの時代を追っていてとても見所が満載だった。
図録も買ったので改めて自分なりに考えてみようと思うが、少なくとも現時点の私にとってはまだまだよくわからないジャンルである。
でもだからこそ面白さもあって、そうした自分なりの取り組みが絵画に限らない芸術の楽しみ方の一つだろう。
キュビズムと音楽と
そんなキュビズムと音楽というと、こんなものはどうだろうか。
日本が世界に誇るノイズ・トランス・アヴァンギャルドの雄、Boredoms。
元々はハナタラシというただのテロリストみたいなところから始まり、今や世界に数多くの影響をフォロワーも産んだ存在だ。
EYEという人がその中心にいるが、未だに狂ったような音楽活動を展開しており、正直意味不明なものが多いのだけど、不思議と何かの折に聞きたくなってしまう。
まさに衝動性の塊のような存在だが、音楽的に解説してしまうとそれはそれでちょっと物足りない、もはや彼ら以外類似は存在し得ないようなアーティストだと思う。
果たして彼らのピカソやブラックほどの思想なんかがあったかはわからないが、いずれにせよメインストリームではないところで花開いて、いろんな影響や価値観の転換を起こしていたような存在というのは、やっぱりかっこいいよなと思う。
まとめ
私はわかりにくいものに惹かれるところがあるし、自分にとって意味不明なものの方が興味がそそられやすい。
その理由は追求する余地があるからだし、それをどう解釈するかが自分にとっての価値観の発見にもつながるので、それが面白いんですよね。
最近はあまり読まないが、昔は哲学の本を読むのも好きだったのだけど、教科書に乗っているような昔の人がこんなことを言ったとかいう話より、思索的というか、まさに哲学しているような本が好きだったのだけど、同じ根本のように感じている。
キュビズムに限らず、すでに学術的に研究されているジャンルだけでなく、名もない研究も進んでいない芸術家の作品なども、引き続き見ていきたいところだ。
インド細密画 ー実は馴染みのある芸術作品
現在有給も消化しているので、3連休と抱き合わせて5連休にした。
最近の趣味である自転車を乗ることをやってみようと思い、ちょっと遠出している。
府中美術館は日本美術を中心に、企画色豊かな展示をしているのでちょくちょく行くのだけど、普段は自宅から1時間半くらいかけていくのだけど、今回は自転車で行くことに。
途中少し寄り道したり市街地で軽く迷子になったりしたので余計な時間は少しくってしまったものの、おそらく正味で2時間かからないくらいで行ける距離である。
電車だと乗り継ぎの都合もあるので、直線距離にすれば存外遠くもないし、自転車ならスイスイ行けるのでこんなものなんだな、なんて思ってみたり。
この頃の多くの発見は、そうした思ったより近いんだなという感覚である。
そんな府中美術館で開催中なのが、なんとインドの美術。
考えてみれば見たことないし、でも仏教画なんかは日本美術の一つの柱にもなっているわけで、観ていて思ったのは思った以上に日本のそうした美術と地続きというか、親和性があるように感じたことだった。
インド細密画
完全に飛び込みで行ってみたんだけど、思ったよりずっと面白かった。
同時に、日本画と同じく遠近感よりももっと直感的に絵画的な表現に重きが置かれている印象で、むしろ絵画的な姿勢を持った絵画なんだなと。
【開催概要】
インド細密画は、16世紀後半から19世紀半ばに、ムガル帝国やラージプト諸国の宮廷で楽しまれものです。(中略)小さな画面に描かれたのは、「見る人と絵が一対一で対話をする」という考え方があったからです。(中略)
美しい線と色に彩られた宝石のような絵の中には、豊かな大地から生まれた人々の自然を崇める心や感性、情熱的な信仰心が込められています。
(中略)西洋絵画とも日本絵画とも違う、インド細密画の美の世界をお楽しみいただき、インド文化への興味を深めるきっかけともなれば幸いです。【開催期間】
2023年9月16日(土)– 11月26日(日)
参考:
細密画と言われるだけあって、ごく小さな紙面に描かれているものが多く、近くでじっと目を凝らすような作品だった。
そのくせめちゃくちゃ細かいのだけど、いずれの作品も作者のクレジットがないのである。
自分の描きたい世界を描くという近代絵画的な価値観とは相反するエゴのない世界は、その根っこに強い宗教性があるが故なのかもしれない。
みるものとの対話を、なんて説明がされていたけど、個人的にはそんな気がしたが。
個人的見どころ
モチーフになっているのが神話的なものが多く、「ラーマーヤナ」など、皆川亮二の漫画でなんか読んだことあるぞ、というような名前が多く出てきた。
今回の展示で特によく出てきた登場人物が何人かいるが、そのうちの一人がクリシュナ、インドの神でありながら英雄的な存在として親しまれているらしいが、『アダマス』でみたことあるな・・・。
調べると結構たくさんの絵が出てくるが、青い肌が特徴的に描かれている。
この絵だとちょっとわかりづらいが、真ん中あたりの王冠を被ったのがクリシュナだ。
神としての神々しさと人間的な生活感をどちらも描かれており、人々にとっての神との距離みたいなものを感じるところだ。
インドの主流はヒンドゥー教なのだけど、昔学校の歴史の授業で聞いたっきり大して覚えていないが、ともあれその神話的なモチーフで描かれる絵画は、しかし欧州におけるそれよりもどこか身近というか、それこそ日本でいう昔話のような感じも覚えた。
実際例えば桃太郎は、「ラーマーヤナ」という話が元になったそうだ。
興味のある人は調べてみてね。
またこちらも有名なキャラクタだ。
こちらは先の「ラーマーヤナ」に出てくる猿王ハヌマーンというキャラクタだが、あの孫悟空のモデルだそうだ。
「西遊記」は中国の物語だが、三蔵法師のインドへの旅路を描いており、何かのヒントになったことは確かそうだ。
ちなみに西遊記の主人公玄奘は実在した人物らしいが、やばいレベルの天才だったらしい。
インド美術や文化は、日本を含むアジア圏には多大な影響を残しているようだ。
それはともかく、インド絵画の大きな価値観の一つが、音楽を絵に収めるというものらしい。
「ラーガマーラ」というようだが、音楽自体が暮らしの中に溶け込んでおり、朝聴くラーガ(曲)、夜のラーガなどさまざまあり、それぞれ性価値の一場面を描きながら、これは朝のそれだよ、みたいなのがあるらしい。
アサヴァリは、朝に演奏される楽曲らしいが、椅子に座りながら笛を吹いているが、そこに蛇が寄ってきている。
こちらは非常に落ち着いた印象の絵だが、他にも同じモチーフながらもっと華やかというか賑やかに描かれたものもあり、こうしたところに画家の作家性が現れていたんだと思うが、いずれもクレジットがないからわからない。
なんか勿体無いと思ってしまう私は蛾が強いのかもしれない。
ちなみに、夜に口笛を吹くと蛇が出るという日本の信仰もあるが、ひょっとしてこういうところが出典だったりするのだろうか。
いずれにせよ音楽を絵画として表現するというのは他国にない独自性で、最近でもインド映画が偉い大ヒットしていたが、ミュージカルどころじゃないレベルで歌って踊るのがその特徴と言われるが、それは昔からのこうした文化が根っこにあるのかもしれないね。
同じタイトルの絵も多くて、正直個別のあれこれをうまく引っ張って来れなかったんだけど、思った以上に親しみのあるモチーフやタイトルがあって、飛び込みで見に行ったんだけど面白かった。
インドでの仏教徒は10%もいないらしく、完全にヒンドゥー教の国なので、宗教的には個人的に馴染みのないものだ。
しかし、元を正せばバラモン教があって、そこから派生してきているので似たところもあるし、先の孫悟空、桃太郎だけでなく、神の乗り物として空を飛ぶガルーダという怪鳥も、名前はロープレで見たことあるし、その姿から天狗の原型とも言われている。
そんなものがたくさんあって、そういう発見感も面白かった。
ただ、もっと素朴に絵画としてみれば、作品が小さいのもあるが一つ一つの描写がまあ細かい。
1700年代の絵画も多く展示されていたが、どうやって書いたんだろうって不思議なくらい。
ちなみに、当時インドは絵の具の産地でもあったらしく、そのせいもあってか色彩も豊か、写実性よりも色彩表現によっていたり、平面的な画面だったりは日本の浮世絵にも通じるところがあり、実は美術観に近いものを持っているのかもしれない。
インド美術と音楽と
そんなインド美術と音楽だか、ちょっと変化球で難しいが、こんなのはどうだろうか。
音楽の哲人Frank Zappaなどどうだろうか。
語れるほど詳しくもなければ聞き込んでもいないが、それでもなおその存在感は認知している。
彼の音楽自体かなり歌詞が卑猥なこともあり当時物議を醸し、裁判にまで発展したそうだが、その様子をレコードに収めるというかなりパンクな活動もしている。
そもそも作品数がべらぼうに多く、1年で2枚ペースでアルバムをリリースしていたこともあるので、作品数は50をはるかに超えるので、その全貌を掴めるのはもはやマニアの領域だ。
他方で、彼のバンドからは多くの名プレイヤーが輩出されていることでも話題で、私的にはKing CrimsomやNINにも参加しているエイドリアン・ブリューはどうしても目をひく存在だ。
また、日本のパンクバンドの先駆け、頭脳警察のバンド名は彼の曲”Brain Police”から拝借されるなど、さまざまなところに波及している。
音楽的には凄まじくテクニカルなところもありつつ、アバンギャルドだがポップさもあり、なんとも不思議な音楽だ。
そんな摩訶不思議さと全世界的な密かな影響度など、そんな面から彼などどうだろうか。
まとめ
なんだかんだ見ているのは西洋圏と日本、せいぜい中国当たり前の美術で、他の国のものはあまりわからないのが実際だ。
なんならアメリカでされ、アンディー・ウォーホールを始めとしたポップアートくらいしかちゃんと認知していないからな。
まだまだ勉強不足だ。
そもそも知る機会自体が希少なので、こうして紹介してくれる機会は貴重だ。
明日はモネ展へ行くが、それはそれでいいんだけどこういう人気の確定している画家ばかりを集めるのではなく、認知の低いながらに思いがけない発見や驚きを与えてくれるような美術館ほど、もっと世に知られて欲しいよね。
甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性
最近更新できていなかったが、美術展にはちょくちょく足は運んでいた。
しかし、なかなか文章に起こすのはパワーを使うので、それが出なかったのよね。
そんなわけで久しぶりの更新だが、東京駅直結のステーションギャラリーで開催されている甲斐荘楠音(かいしょうただおと、と読む)という人の企画展。
私は全く知らなかったのだが、大正時代の画家で、いわゆる大きな画壇からは距離を置いていたので知名度は高くないようだ。
こうした割とコアな作家にも焦点を当てるステーションギャラリー、立地の割に攻めていて面白い。
そういえば、前回更新したのもこのステーションギャラリーで開催された佐伯祐三展であった。
こうした独自の活動をした日本人画家を知られる機会はあいがたいことだ。
甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性
この人は画家として活動してたものの、ある時期からは時代劇の衣装などのデザインでも関わっており、実はそちらでの活動の方がキャリア的には目立った実績だったようだ。
【開催概要】
甲斐荘楠音(1894-1978/かいのしょうただおと)は、大正期から昭和初期にかけて日本画家として活動し、革新的な日本画表現を世に問うた「国画創作協会」の一員として意欲的な作品を次々と発表しました。しかし、戦前の画壇で高い評価を受けるも1940年頃に画業を中断し映画業界に転身。(中略)画家として、映画人として、演劇に通じた趣味人として――さまざまな芸術を越境する「複雑かつ多面的な個性をもった表現者」として甲斐荘を再定義します。
【開催期間】
2023年7月1日(土) - 8月27日(日)
出典;https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html
絵画だけでなく、彼の手がけた着物衣装なんかも展示されていて面白かったが、何より彼の絵のインパクトが半端じゃなかった。
個人的見どころ
序盤は割と伝統的な日本画だが、早々に個性を発揮し始める。
そもそも画壇のしがらみが面倒になってそうした世界から距離をおいたということらしいので、結構パンクな人だったのだろうか。
こちらは男性か女性か判別しづらいが、耳を真っ赤にしながら口元に毛抜きを当てているが、どうやら少年らしい。
一体どういう心持ちかわからないが、彼なりの美しさの理想があって、それに髭という存在は忌まわしき存在なのかもしれない。
ともあれ、割と日本人画家っぽい作品である。
彼は女性画を多く描いており、特に芸妓さんの絵を多く描いており、また女形に憧れていたとの記述もあったが、女性的な美への憧憬みたいなものがあったのかもしれない。
そんな彼の描いた女性像はどれもなかなかに個性的だ。
控えめな着物に身を包んだ女性の全身像だ。
よく見ると着物の皺の具合など、非常に流麗に描かれているが、何よりこの表情だ。
ちょっと怖い。
この人の描く女性像は、概ね何か裏を持ったような表情をしているが、それがそこはかとなく妖艶だったりする。
私も個人的には女性は男をて手玉に取るくらいの強かさがある方が魅力的だと思っているが、ともあれそんな表現が面白くて仕方ない。
今回の展示の中で随一の存在感を放っていた作品の一つがこちら。
芸妓の偉い方、大夫を描いたようだが、この絵は未完の作品のようで、左下は中途となっており、また本体もどこか制作途中の後を残している。
ともあれこの表情。
妖怪か?と思わず呟いてしまったが、絢爛豪華な頭飾りもともなって、上り詰めて力を得たもののある種の怪物感を表しているのか。
どういう思いで描いたんだろうか。
そして、今回の展示の中で個人的に一番印象的だったのはこちら。
まだあどけなさも残る芸妓さんの躍動感のある踊り、炎を纏ったかのような色使いと、躍動感溢れるタッチ、彼はこうした動きを描くのがとても上手だと感じる。
背景にはうっすらと手の影や着物の影のようなものが描かれているが、これは彼女の影なのか別の何かなのかはわからないが、タイトルは幻覚である。
ラリっとんのかい、という話だが、過剰なまでの目元のアイラインと無邪気なのか邪気なのかわからない表情も伴って、とにかくなんか怖いのだけど、踏み込んでみたら至高の幸福感があるような誘惑もある。
やっぱり表情がちょっと怖いし。
手の動きも足の動きも、全てがうねっており画面の動きが半端じゃない。
しばらく見入ってしまった。
ちなみにチケットに描かれていたのもこの絵だったが、知らない人がみたらやばいお札にも見える。
このような怖い感じの絵ばかりというわけではもちろんなく、このような作品もある。
乳房も露でシースルーな衣装を身に纏った色っぽい女性像だ。
表情は聡明な印象すら受ける。
こうしたすっきりした絵もたくさん絵がいており、彼にとっては女性的な美しさ、というものがテーマだったようだ。
こうした美人画も数多く残しているのでそれらも見どころである。
こちらは割とラフな印象のタッチの作品だが、デザイン的なセンスを感じる作品だ。
男の地味ながら渋い漆黒の着物と、女性の青い綺麗な着物の対比、また相互に背中合わせになっている構図が何かを決心した二人のような心強さがあり素敵だ。
かっこいい。
後に着物のデザインも手がけて評価も確立していくだけあって、その辺りのセンスはさすがということだろうか。
一時映画界で活躍するも、後年は再び絵画の道に戻ったようだ。
彼の生涯の代表作と呼ばれるのは2作あるようで、そのうちの一つがこちら。
実際にあった事件をモチーフにした作品とのことだが、結局未完であったようだ。
全て女性を描いているが、よく見ると顔が描かれていなかったり、全員裸だが着物を描こうとした跡があったりと、まだまだ途中だったことが伺える。
一枚の絵の中でも、中央にはまるで菩薩のように他のものを抱きしめて、ピエタみたいになっているところもあれば、それに縋る人もある。
片や嘆き悲しむものもいるといった具合で、それぞれの物語を表現しようとしたのだろう。
この絵の制作にあたり、作者自身が自分でさまざまなポーズをとって写真に収めて参考にしたらしい。
そしてもう一枚がこちら。
先の作品とは打って変わって、華やかでポジティブな感じの作品、タイトルも『虹の架け橋』だ。
この作品も紆余曲折があったらしく、芸妓さんたちの顔を発表前に書き直したりもしたそうだ。
金屏風も去ることながら、漆黒の髪と派手な着物と、まるでクリムトのようでもある。
元々は別のタイトルだったそうだが、それを後に変えたそうだ。
写実的でありながら明らかに浮世離れしており、不思議な絵である。
と、ざっと気になったものだけを紹介したのだけど、1人の作家とは思えない振り幅がありながら、一貫しているのは女性の美しさへの憧れかなと思う。
本人もある女形の歌舞伎役者さんに「こんなおっさんがなんであんな美人になるの!?」と衝撃を受けたというエピソードもあるそうだが、やはりそうしたものへの憧れがあったんじゃないかなと個人的には感じた。
ちょっと怖い感じで描かれる美しい女性像も、彼の畏敬の念を表したものなのかもしれない。
ともあれ、他にも魅力的な絵がたくさんあり、海外の美術館にコレクションされている作品の展示もあって、また彼が資料として集めたスクラップブック、多くのスケッチも展示されており、絵が完成するまでの過程もみられて非常に面白い展示となっている。
独特の画風だが、彼なりの美学を追求した芸術家だったのだろうなと思う。
お盆の最中で激混みの東京駅にあって、割と人は少なかったので、とてもおすすめのスポットだ。
甲斐荘楠音と音楽と
そんな彼と関連づける音楽だが、こちらはどうだろうか。
日本が誇るNW、パンク、オルタナ系バンド、Plasticzooms。
知る人ぞ知るインディバンドだが、ファッション系のイベントとコラボしたり、海外でも一定の評価を得ている独自のスタンスで活動しているバンドだ。
なぜか一時ロシアでめちゃ聴かれていたらしい。
彼らも元々はバンドでスタートしたが、今はVoのShoのアートプロジェクトのような位置付けになった。
音楽的にもメインストリームではないが、独自の美学を感じるし、時にグロテスクなまでの面もあれば、とてもロマンティックで美しい面もあって、音楽だけでもとても面白い。
こういう美学を持ったアーティストは大好きなんですね。
メインストリームだけが世界じゃない。
まとめ
メジャーではないだけで、日本には今も昔も優れた芸術家がたくさんいる。
今の音楽シーンでも、しばしば「日本の音楽は終わった」などと宣ううやつが後を絶えないが、それはお前が知らないだけだ。
音楽でも絵画でもなんでも、素晴らしい存在は現在進行形で存在している。
何も終わっていない。
終わらせたいやつがいるだけだ。
こういう存在を知ることは、私にとっては興味深いだけでなく、勇気づけられるところもある。
東京では8月いっぱいくらいだが、周りと違うことに悩んでしまう人や、変わってるねとかわかってもないやつに言われてしまって苦しい気持ちになってしまっているような人がいたら、ぜひ足を運んでみて欲しいですね。
佐伯祐三 –自画像としての風景
日本人の画家の企画展も最近は足を運ぶようにしているが、ほとんどの場合めちゃくちゃいい。
青木繁のように早逝した画家も少なくないし、香月泰男のように戦争を経ても生き残り絵を描き続けられた画家もいる。
伝統的な慣習から解き放たれ始め、西洋絵画の影響を受けつつ、中には海外に活路を見出して成功した画家もで始める頃だ。
激動といえば一言で片付くが、当人たちはさまざまの紆余曲折を経て自らの表現を模索していたわけで、そういうことが垣間見えるこの時代の画家というのは須く魅力的である。
この佐伯祐三さんも1920年代頃を中心に活動しており、他の画家同様フランスで様々なインスピレーションを得て、自らの作風を磨いていった画家の1人だ。
しかし、志半ばで当時はまだ不治の病だった結核に罹り、僅か30才でこの世を去ってしまうのだが、特に晩年は精力的で、1日1作以上のペースで描き続けたとか。
彼の画家人生で絶大な影響を与えた出来事が、彼自身が憧れていたヴラマンクに会った際、その絵を見せたところ偉くダメ出しされたということであるそうだ。
憧れの人にようやく出会えたら、自身の作品をボコボコにこき下ろされて、さぞショックであったろう。
その経験を色濃く反映しているのがこちらの絵だ。
こちらは自画像で、構図はアンリ・ルソーのようでもあるが、注目すべきはかおである。
一度描いたものを削り取るような形になっており、いかに衝撃的な出来事だったかを物語っているようだ。
ちなみにこちらの絵は、コアなロックファンには馴染み深いもので、日本のオルタナの雄、Eastern Youthのアルバムジャケットに使われているのである。
しかし、彼はその経験を機によりオリジナリティを獲得していくに至るわけだが、画家としての評価と引き換えに彼の絵はどこか苦悩に満ちているようにも見える。
そんな彼の画業を辿った展覧会で、結論から言うとめちゃくちゃ良かった。
佐伯祐三 –自画像としての風景
【開催概要】
およそ100年前、「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に生き、短くも鮮烈な生涯を終えた画家、佐伯祐三(1898-1928)。1924年に初めてパリに渡ってからわずか4年余りの本格的画業の中で、都市の風景を題材とする独自の様式に達しました。特に、一時帰国を挟んだ後の2回目の滞仏期に到達した、繊細で踊るような線描による一連のパリ風景は、画家の代名詞とされ、その比類ない個性は今でも多くの人を魅了し続けています。(中略)
本展では、佐伯が描いた「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に注目し、画家が自らの表現を獲得する過程に迫ります。(中略)15年ぶりの回顧展となる本展は、佐伯芸術の魅力を再発見する機会となることでしょう。
【開催期間】
2023年1月21日(土)~4月2日(日)
出典:特別展「佐伯祐三-自画像としての風景」:【東京会場】2023年1月21日(土)~4月2日(日) 東京ステーションギャラリー/【大阪会場】2023年4月15日(土)~6月25日(日) 大阪中之島美術館
この当時の日本人画家は、海外の画家の影響を色濃く受けているため、時期によっていかにもそれっぽいというものがあるが、徐々に自分の中で消化していく様がみてとれるのも面白いところだ。
個人的見どころ
展示の冒頭では多くの自画像が展示されている。
写真を見ても結構ハンサムで、伊達男といった佇まいなのだが、そんな自分をわかっているような自信に溢れたような表情が印象的である。
絵のタッチは岸田劉生なんかに近しいものを感じるように思う。
キャリア初期は風景画をよく描いていたそうで、特に住んでいた下落合付近の風景を描いている。
同じタイトルの作品がいくつかあるのだけど、中でも個人的に目に留まったのがこちら。
絶妙に歪んでいるというか、ちょっと歪なんである。
彼の絵はそういう構造になっていることが多くて、なぜそんなふうに描いたのかが気になるのであるが、後期でもその関心が顕著になってくるが、幾何学的なバランスを彼なりに追求していたらしく、それゆえ直線的な構図の中に全体としては微妙に歪んで感じるところがあるのかもしれない。
また彼も雪景色を描いている。
ちょっと画質の問題で実際の絵と印象が違ってしまうが、ともあれ彼の描く雪景色は、っ白の美しいものではなくて、土が混じった少し時間が経った後の雪だ。
でも汚いなというよりは、ただ写実的なだけなのだろう。
彼の絵は常に実直な印象があって、とにかく何かを必死に描こうとしているように感じるのである。
ちなみに描かれているのは雪遊びに興じる人たちだそうで、よく見るとスキーを履いている人もある。
私はなぜかピーター・ドイクを思い出したのだけど、彼はまさに現代の現役作家だ。
何か通じるものがあるのかな、と勝手に思ってしまった。
こちらも連作の一つ、同じタイトルの作品があるのだけど、それぞれに何かを試している感じが興味深い。
おそらく同じ船を描いているであろうにも関わらず、帆の数なんかを変えたり、波の具合が違ったりと変化をつけている。
黄金比という言葉があるように、彼なりにこれがというポイントを探っていたんだろう。
彼はしばしば同じモチーフを繰り返し描いているが、その差分を見るのが面白い。
その観点では、街に貼られている広告は彼の関心を大いに引いたようだ。
今でもあちこちに掲示は貼られているが、その雑然とした様が、彼の関心を強く引いたのだろう。
彼は街の風景をよく描いているのだけだ、とりわけ幾何学的な構造なんかに関心が高かったようで、シンメトリーな構図でよく描いており、また同じモチーフを繰り返し描いていたそうな。
こちらはフランスの靴屋を描いたものだが、同じ構図でいくつか描いており、中に店主が描かれているものもあり、いくつかのバリエーションがある。
中の暗さと表の壁の白さのコントラストや、店先に並べられた靴の置き方など、構図的にも絶妙にバランスが取れている。
また、真ん中あたりが殊更に明るく、周辺はやや色が暗めになっているのも、引きで見るといい対比である。
こうして同じ構図を描くことで、美しく見えるバランスを探っていたのだろう。
絵画の構築性というか、どんなこと考えているかみたいなものを見て取れるように思うので、非常に興味深く面白いところである。
この頃はユトリロやセザンヌなどさまざまな画家の影響を割とわかりやすい形で示しているので、それを見るのも面白い。
同じ構図というわけではないが、街を描いた中で私がつい見入ってしまったのがこちら。
フランスの街の風景を描いた中の一つだが、私はこの絵がなんか知らんが妙に目に留まって、しばらく見てしまった。
実際の絵はもっとグレイな色調で淡々とした中に、赤い衣服の女性が中心にいるというものだ。
彼の絵にはこうしたオシャレな女性が必ずと言っていいほど登場しているが、初期から通底する彼なりの美観みたいなものがそれを通じて見えてくるようで面白い。
こうしてある種ドライなモチーフを描く一方で、数は多くなかったようだが人物画も描いている。
そんな作品の中で特筆すべきはやはりこれだろう。
一人娘、彌智子を描いたものだ。
当時フランスへも奥さんの米子さんと一緒に行ったのだけど、この子は祐三は結核で亡くなったわずか2週間後に同じく結核で幼くして亡くなってしまったという。
奥さんの気持ちたるや、想像に絶する。
私には嫁も子供もいないけど、もし仮にいて、自分より先に嫁や子が逝ってしまうような自体があれば、立ち直れる自信がない。
旦那にも子供にも先立たれて、それでも後年自身も画家として立身したというから、強い女だったのだろう。
ちなみにフランス滞在中は、彼の同僚にも可愛がられていたというが、やっぱり子供が早くに亡くなる社会というのは、よくないよね。
彼はフランスで体調を悪くするが、その環境でもなお絵を描きつづけた。
その中の一つは彼の最高傑作の一つと言われているようだが、それがこの作品だ。
彼の絵は青い空は描かれているのは稀だし、まるで童話のような鮮やかな色使いは彼の画業で極めて稀な作例ではないだろうか。
この頃は病に冒されて、体力的にもかなりしんどい状態だったそうだが、それでも何かを掴むために描き続けたようだ。
徐々に外に出ることが叶わなくなると、配達に来る配達員や、モデル志望の子を描いていたようだ。
それでも病状は止まることなく、彼は30年という短い生涯を閉じたのであった。
佐伯祐三と音楽と
もはやこれはいうまでもない。
彼の絵をジャケットにも用いたEastern Youth、そのアルバムに収録されている彼らの代表曲の一つ”夏の日の午後”だ。
冒頭にかの肖像画を見せられたので、見ている間ずっとこの曲が頭を流れていた。
「神様あなたは、なんでも知っていて、心悪き人を打ち負かすだろう」と始まるこの曲は、しかしそれでも自身の意思とか想いの間で思い悩む様を絵がいるような曲である。
そんな世界観と佐伯の画業はリンクしているように思うのだ。
まあ、イースタンが選んだ理由という方が正しいんだろうけど、実際どうだったのだろうか。
まとめ
手塚治虫も、やりたいことに対して人生の時間が足りないと言って亡くなったという。
芸術家である以上、描きたいものがようやく見え始めた時に死期が迫るなど、くやまれてしかたなかっただろう。
セザンヌ、ヴラマンク、ゴッホ、ユトリロなど、さまざまな画家の影響を受けながら、独自の作風に落とし込んでいきながら、自分のスタイルに作り上げていった彼が、もし病気にかからずに絵を描き続けていたら、どんな絵を描いただろうか。
速水御舟も早逝してしまったが、才能も何もあった人たちが志半ばで亡くなってしまうというのは、やっぱり残念なことである。
でも芸術として没後100年経っても語られる存在であることは、少しでも何かの救いになれば幸いだ。
マリー・ローランサンとモード
現代は女性の時代などと言われて久しいが、得手してスローガンにされる事柄は実現されていないからこそスローガンとなるものである。
当たり前になっていることは殊更いう必要なんてないからね。
それでも、昔と比べればだいぶマシになったところはあるにせよ、いまだに化石みたいな世界は存在している。
残念ながら芸術の世界はまだまだそんな感じで、おっさん連中が権力を持っているので若い女性アーティストにセクハラしまくっているということで、書籍なんかも出ている。
男の考えることってのは金を持っていてもいなくても、どこまで行ってもエロいことしかないらしい。
そんな世界なので、女性が本当の意味で才能を発揮できる環境というのはまだまだ稀有なのかもしれないが、どんな時代にも突き抜ける人というのはいるもので、印象派がよに出て少し経った頃にパリで活躍したのがマリー・ローランサンだ。
私は同時代の画家の展覧会で何度か見たことはあって、ピンクとグレーの淡い色合いが印象的で、一度まとまった展覧会が見たいわ、と思っていたのでまさに好機である。
【開催概要】
ふたつの世界大戦に挟まれた1920年代のパリ。それは様々な才能がジャンルを超えて交錯し、類まれな果実を生み出した、奇跡のような空間でした。とりわけ女性たちの活躍には、目を見張るものがありましたが、ともに1883年に生まれたマリー・ローランサンとココ・シャネルの二人は、大戦後の自由な時代を生きる女性たちの代表ともいえる存在でした。
女性的な美をひたすら追求したローランサンと、男性服の素材やスポーツウェアを女性服に取り入れたシャネル。本展では美術とファッションの境界を交差するように生きた二人の活躍を軸に、ポール・ポワレ、ジャン・コクトー、マン・レイ、そして美しいバイアスカットを駆使したマドレーヌ・ヴィオネなど、時代を彩った人々との関係にも触れながら、モダンとクラシックが絶妙に融合する両大戦間パリの芸術界を俯瞰します。
時代とともにありながら、時代を超えた存在となったローランサンとシャネル。二人の創作の今日的な意味とその真価が、生誕140年を記念するこの展覧会で明らかになるでしょう。
本展では、オランジュリー美術館やマリー・ローランサン美術館※など国内外のコレクションから、約90点のラインナップでご紹介します。
【開催期間】
2023/2/14(火)~4/9(日)
参考:
なんとシャネルの創業者、ココ・シャネルとも親交があり、彼女の絵も残している。
ただ、ライバル関係というか、友人的な関係というよりはちょっとばちばちしたところがあったようだ。
すごい時代である。
個人的みどころ
私は画家のイメージしかなかったけど、ファッションの分野でも服のデザインや、バレエの衣装のデザインなども手掛けていており、その作品がおしゃれ。
絵自体も非常に特徴的で、ポスト印象派的な平面的な構図の中に、当代のキュビズムやフォービズム的な風味もあるように思う。
また、私はキスリングって好きなんだけど、顔の表情なんかは通じるところがあるように思うものの、調べたが知り合いくらいの情報はあるが、作品への影響についての言及は見当たらなかった。
こちらがシャネルの創始者の肖像画、2人は同じ年に生まれたようで、こうして絵も残っているならさぞ仲良く切磋琢磨したんだろうと思いきや、シャネルはこの絵がいかにも女性的に柔らかな印象で描かれており、自身のイメージと違うから描き直せ、と要求したとか。
対するローランサンも負けてはいない、ナメたこと吐かすなとそれを断ったという。
それ以来2人の仲は断絶したままお互いの生涯を終えたとか。
こともあろうにローランサン、シャネルに対して「あんな田舎娘」などと毒付いていたというが、一方で生涯シャネルの服を愛用していたということらしい。
認めるところは認めていたんだろうし、似たもの同士が故に反発するような、そんな2人だったのかもしれない。
彼女は女性画ばかりを残しており、彼女に肖像画を描いてもらうことが一つのステータスでもあったようだ。
いくつか描かれている1人がこちら。
そのきっかけとなったのがこちらの絵とのことだが、日本では昔のノエビアのCMを思い起こさせるような印象と思ったのは私だけだろうか。
ともあれ、どちらも表情が少し虚ろというかなんというか、クリムトの女性像のようなある種の神々しさとは異なるが、そこはかとなく神秘的に感じる。
それまでの写真のような肖像画よりも、ある種抽象化されたところもあるので、貴族のブランディング的な意味では効果的だったのかもしれない。
ちなみにこちらは自画像。
全体的に言ってそんなに明るい絵を描く人ではないという印象だけど、それにしたってもう少しイキイキ描いても良さそうなものを。
とはいえ、ピンクのお召し物に緑の髪飾りと、ポイントポイントでは華やかさは忘れない。
画家の描く自画像は、得手して自分の内面を描くような作業と言われるが、男性作家(とひとくくりにしていいかわからないが)に比べればナルシシズムのようなものは感じない。
こちらもどこぞの貴族の肖像画だろうが、なんだか鼻持ちならない気がするのは私固有のバイアスだろうか。
ともあれ、こうしたブルジョワジーの肖像画においては犬がよく登場している。
今でも金持ちの令嬢、もしくはマダムはやたら犬と共に映りたがるが、それは時代を超えた普遍性なのだろうか。
ともあれ、独特の色彩感覚と、犬の優しい表情が印象的である。
彼女は絵画作品に限らず、舞台やバレエの衣装なども手掛け、幅広く活動していた。
牡鹿というバレエ作品の衣装を手がけており、こちらはその本?の挿絵のようだ。
元々ファンタジックさもあるので、こうした作品との相性もいいのだろう。
私は普段あんまろファッションとかって見ないんだけど、こういうところで見ると舞台衣装なんかも面白いよね。
色々のコンセプトだったりテーマだったりを思いながら見るとなるほどなと、思ったり思わなかったり・・・。
しかし、画風というかここまで自分の作風を立ち上げている人ってそう多くないだろう。
上手い下手とは違い世界に存在している。
彼女はマティスとまさかのアンリ・ルソーにも影響を受けたというから、そのためと言えるかどうかわからないが、現実と絵画世界を切り離す視点の参照点になっているのかもしれない、とか思ったり。
元々ジョルジュ・ブラックの弟子筋になるとのことなので、キュビズム的なタッチも取り入れている。
キュビズムといっても、例の訳のわからん構造だけを取り出したような物とは違い、部分的に取り入れている程度だ。
風味だけという感じだけど、輪郭線をしっかりと描くのはまさに以降の作風といえるか。
いくつかこうしたタッチの作品を残しているが、直線よりも曲線の構成が印象的である。
この人絶対頑固者だろうなと勝手に思っているが、そうでなくては生き残れなかっただろう。
生きている時から割と商業的にも成功していた画家だったので、装飾品としての絵画も多く、こんな絵も描いている。
花と鳩がシームレスに連動したようなデザイン性が実におしゃれ。
彼女の絵は全般的に言って洒落ている。
家に飾るならどんな絵がいいかと聞かれたら、この人の絵なら気持ちよく飾れる。
ちなみにこちらの画像はちょっと色調が鮮明すぎるが、実物はもっといい感じに鮮やかで素敵だ。
ローランサンは結婚したのだけど後に離婚、その後はバイセクシャルということも隠さずに生きていたとか。
なんというか、正しい表現かわからないが、非常に現代的な女性だったのだろうな。
ある伯爵夫人とは非常に仲が良かったというが、その仲はただならぬものだったそうだ。
ニコル・グレーという女性で、彼女も結婚して子供もおり、子供たちとの肖像も描いている。
こちらはそのグレーとローランサンを描いたもので、グレー婦人が絵を描くローランサンを背後から覗き込むような構図になっている。
自信を色味のないやや暗い色相で描き、対する婦人は華やかだ。
彼女自身の自己認知はどう言ったものだったのかということもちょっと気になる。
こちらがローランサンの肖像、ポージングもしっかり決めて、あえて目線をこちらではなく別な方に向けている。
この写真だけだと気取りやのように見えるが、他の写真では飾りっ気なく写っているものも残されている。
ある種のらしさを拒否するような態度をこうしたところにも感じるように思う。
強い女性という言葉で語られるかもしれないが、その辺りの価値観って実は今と変わらないのかもしれない。
こちらが先にも触れたニコル婦人とその娘ちゃんの絵。
頑固者だが他人の幸せを妬んだりはしない、そんな気持ちのいい人だったのかなと思ったりもする。
それこそゴッホなんてその権化だと思うが、自己表現としての絵画が中心となっている中で、どこかそうしたエゴとは距離をとったような印象があって、純粋に自身のスタイルや自分なりの美学を貫いているように感じられる。
私はエゴの塊みたいな作品って大好きなんだけど、こうした独自の世界で生きているんだなと感じるものも等しく好きである。
その他の作品も、女性の絵をやはり多く描いている。
モード系って感じ。
モダンガールという価値観も生まれた当時の世相を反映するような、性的な意味ではない挑発的な雰囲気も感じる絵だ。
こうした帽子を被った女性の肖像画も多数残している。
貴族層の正式な場でのファッションでは、帽子は正装の必須アイテムだったそうだ。
この辺りの絵であれば、今のアパレル業界でも全然通用するセンスではないだろうか、とセンスのない私は思うがどうだろうか。
展示会では当時の衣服も展示されており、普通にもし彼女がきていたらおしゃれやんと思う服もあって、本当の意味での美観というのが時代を超えた普遍性があるのではないかと思ったものだ。
私はどちらかと言えば女性という存在をリスペクトしているし、基本的に愛おしい存在として認識している。
女の人の方が頭いいし、賢くて芯のある女性はやはり素敵だなと思う。
また服装なんかを見ても、やはり女性の方がバリエーションも豊かで、元々の体の起伏も飛んでいるのでシンプルに美しいと感じる。
ジェンダーだったりLGBTQだったりといった視点が知られる中で、生まれ持っての身体に紐づく性が否定されがちだけど、やっぱり女性的な華やかさだったり美しさってあると思っている。
日本的な女性らしさという価値観は違うと思うが、それは持って生まれた才能みたいなものだから、否定できないんだよな。
もちろん反対に男性的な美だってあるわけで、そういったことは個人的には否定できない。
その種の議論はここではさておいて、シンプルに華やかで綺麗な展示が多いので、そうした美的なものが好きな人にはおすすめだ。
会場は女性客がいつになく多く、若い女の子たちも「可愛い!」とかいいながら展示を見ているのがよかったね。
普段絵は見ないという人でも、シャネルの服なんかも飾られているので、何かのきっかけになるといいなと思いますね。
ローランサンと音楽と
そんなローランサンと音楽を紐づけようとするわけだが、こちらなんかどうだろうか。
現代のオルタナアーティストの代表格の1人と言っても過言ではない、St. Vincent。
ギターの腕前はあのKing Crimsonのロバート・フリップに比肩するとも言われるほどだが、ステージの見せ方や独自のファッションセンスなどは他に類を見ない。
Talking Headsのデイビッド・バーンとのコラボアルバムもリリースするなど、いわゆるアートロックの界隈で知らない人はいないだろう。
昨年のサマソニでも来日しており、私はThe 1975を差し置いて彼女を見に行った。
ライブもシアトリカルで舞台装置も凝っており、派手なファッションながら男目線で言えば露出の割にエロさを感じない。
セクシーではあるが、ちょっと違うのである。
どちらかといえば女の子の憧れる女性像の1人ではないだろうか。
女性らしい華やかさが全開にありながら、性的なところに収斂せず、だから彼女を男に媚びているみたいな評価をする人はあまりいないのではないだろうか。
そんなつまらない視点が置いておいて、その存在そのものが芸術であるようなあり方は、すごいことである。
まとめ
何かと価値観が錯綜する時代にあって、変なところに気を遣わねばならず、却って本質が歪められがちな世の中だが、いつだって残るのは信念のあるものだけだ。
実は現代的と思ってしまう視点自体、既にバイアスがかかったものなんだなと自分自身感じるところだ。
本当の意味でフラットな世界はまだまだ先だろうが、少なくともその世界観の中では独自に生きている。
そういう人って、いいですよね。
没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡
なんでも同じだけど、知られていないから劣っているとは限らない。
殊エンタメにおいては知名度は必須とはいえ、アートの領域においてはそんなものは偶然性以外のなにものでもなくて、作品の本質を評価するものではない。
しかし、知られていないから劣っていると考える人は平気でいて、本当に私は不思議なんだけど、自分の中に評価する物差しがなければ人の評価に依存するしかなく、そうなるのは仕方ないのかもしれない。
さて、千葉市美術館ではしばしばそんなマニアックな画家の企画展を催しており、しかも時代も昔から現代、伝統的な日本画や浮世絵から現代美術まで幅広くカバーしており、毎回足を運んでいるのだけど、2月末まで開催しているのがこれまた私は全然知らない人だった。
江戸時代の人で、版画作品が代表作らしいのだけど、版画といっても西洋的な銅版画である。
日本では当時既に浮世絵があったし、それは木版画なので技術体系としても違うものである。
時の大名、松平定信の命により海外の技術を勉強せよ、みたいな感じで技術の習得に励み始める。
今回の展示ではその過程をメモ書きみたいなものも含めて追いかけており、苦闘の後が見えるのも興味深い。
日本でも写実的といわれた表現はあり、かの円山応挙も同時代である。
しかし、西洋的なそれとはそもそも画材も違えば技術体系も異なる。
遠近法なんて視点すらなかった時代だったからね。
私が単に見慣れていないだけなんだけど、西洋的な構成に日本的風景が合わさった絵というのは、なんだか不思議な趣があり面白い。
また、個人的にも面白いと思ったポイントは、彼は作品を作る上でのさまざまな作品を参照しており、部分部分をつなぎ合わせて1つの作品を構成しており、それはまさにサンプリングである。
肖像は弟子が没後に描いたものくらいしかないようだが、一体どういう人だったのか、それも興味深いところである。
没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡
【開催概要】
江戸時代後期に活躍した洋風画家、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん・1748〜1822)は、現在の福島県須賀川市に生まれ、47歳の時に白河藩主松平定信の命を受け、腐食銅版画技法を習得した遅咲きの画人です。
主君の庇護のもとで試行錯誤を重ねた田善は、ついに当時最高峰の技術を身につけ、日本初の銅版画による解剖図『医範提鋼内象銅版図』や、幕府が初めて公刊した世界地図『新訂万国全図』など、大きな仕事を次々に手掛けていきます。
一方で、西洋版画の図様を両国の花火に取り入れた《二州橋夏夜図》や、深い静寂と抒情を湛える《品川月夜図》など最先端の西洋画法と斬新な視点による江戸名所シリーズや、《浅間山図屏風》(重要文化財)に代表される肉筆の油彩画にも意欲的に取り組み、洋風画史上に輝く傑作を多く世に送り出しました。
首都圏では実に17年ぶりの回顧展となる本展では、現在知られる銅版画約140点を網羅的に紹介するとともに、肉筆の洋風画の代表作、谷文晁・司馬江漢・鍬形蕙斎といった同時代絵師の作品、田善の参照した西洋版画や弟子の作品まで、約250点を一堂に集め、謎に包まれたその画業を改めて検証します。【開催期間】
2023年1月13日[金] – 2月26日[日]
前期:1月13日[金] – 2月5日[日] 後期:2月7日[火] – 2月26日[日]参照:没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡 | 企画展 | 千葉市美術館
開催に気がつくのが遅く、既に後期になっていた。
わずか1ヶ月強と短い開催期間だが、見ごたえはばっちりで、何よりこれまで見てきた絵画とだいぶ違って面白かった。
洋画ではなく洋風画というのが名称的に発展途上を感じさせる。
谷文晁、司馬江漢の名前は見たことがあるが、多分近代の画家と勘違いしていた可能性大だ。
個人的見どころ
まずは田善氏の肖像を。
こちらは弟子の残した肖像画、他にそれらしい作品は今回は展示されていなかったのだけど、きちっと正座していかにも真面目そうだ。
この肖像画は本人没後に描かれたとのことなので、この姿が彼の典型的なイメージだったのだろう。
まだまだ謎の多い、研究され尽くしていないそうなので、これから明らかになってくることもあるだろう。
こちらは代表作の一つ、東海道では初の宿場町となった品川の宿から海を眺めた絵だ。
芸妓さんらしき女性が海を眺めながら、傍には灯りが立っており、寂しげとも言えるし静かで心落ちつく風景とも言える。
当時は海にも面していたというのでこうして遠くを眺めるのは日常だったのかもしれない。
銅版画なので線の一つ一つが細かいので、西洋的な版画だと感じるが、そこで描いているのが日本的な風景というのがなんか不思議だ。
こちらは夏の風景とのことで、おそらく雷雲を描いた風景だろう。
当時は写真なんてもちろんないし、急に起きる自然現象に驚くばかりだっただろうが、そんな風景を描こうと思った時に記憶を辿ると、こういう表現になるんだろうな。
浮世絵においても雷の表現は度々みられるが、写実的とは言い難いが一方で独自の迫力ある表現となっており、芸術家としての力量のようなものを感じさせる。
こうした白黒の作品だけでなく、彩色されたものも多く描かれている。
似た構図の作品がいくつかあるようだが、なんだか不思議な雰囲気のある作品だ。
日本絵の具ではなく油絵具も使われており、しかし風景は浮世絵にもありそうな江戸のまちなみだ。
どこか現代的にすら感じるが、描かれたのは江戸時代だ。
こういう感じの風景画を見たことがなかったのですごく独特に感じてしまう。
近しい構図ではこんな雪景色の絵も。
こちらもほぼ同じ構図の作品がいくつか存在するようだが、やはりモダンな印象が強い。
私は雪景色の絵って好きなんですが、この絵を見た時には正直あんまりいいなとは思わなかった。
なんていうか、発展途上というか、多分作家本人の意向として、描きたいから描いたというよりは何かの練習のような印象だったのだ。
ていうか、この人の絵には全てそうなんだけど、ひたすら技術的なところに焦点していたような印象がある。
こちらは浜辺の景観を描いているが、、司馬江漢もほぼ同じような構図の絵を絵が描いている。
洋風画において先達立つ江漢の絵を参照するのは当たり前といえばそうだが、彼はオリジンというよりはそれを発展させることに才能を発揮した人だったのかもしれない。
本当は載せたい絵があったのだけど、画像が見つからなかった。
彼の作品は、彼自身が描きたいものを描くよりは、やはり大名からの指令を受けて実直に行おうとしていたのかなと感じる。
その意味で、本質的に芸術的な目線で見ていいのかわからないが、結果的に彼の作品により後世の発展に繋がったわけだから、彼のような存在はやはり重要なのだ。
ちなみに、この展示会でも例によってスポットで説明書きがあるが、そこでなぜかピックアップされているごんぱちくんというキャラがいるが、序盤で登場するが実際に描かれた絵は終盤に登場する。
一体こいつなんだよと思うわけだが、絵を見てびっくり。
ごんぱちくんの正体は白井権八、130人くらいは斬り殺したというとんでもないやつらしく、歌舞伎なんかのモチーフにもなっているそうだ。
この絵の背景にも無惨に切り倒された死体が累々と重なっており、手足もバラバラの陰惨な有様だ。
ごんぱちくんなどとキャッチーに伝えておいて、終盤にこれが出てきたら子供達びっくりだわ。
ともあれ、こうした伝統的と言えるモチーフも描いているのが面白い。
私の印象に残った絵の画像があんまりなかったので数が少なくなってしまったが、新しい作風や技術を取り入れていくのは科学だけでなく芸術も同じだ。
序盤でこそデッサンや写生、模写ですら苦心した様が伺えるが、のちには政府のいち大事業であったろう世界地図の作成や人体解剖図鑑の挿絵なども担当するにいたり、彼の画力の評価が当代で既にあったことが明白である。
こちらは江戸の街並みを鳥瞰的に描いた作品だが、細部に至るまで国名に描いており、その技術力の高さを窺い知るには十分だろう。
まだまだ画家として研究途上にあるらしく、わかっていないことも多いとか。
しかし、芸術家というよりは職人のような印象のある画家だが、新しい時代の画家にとっては大きな参照点にもなった存在だろう。
彼の奇跡はまだまだこれから明らかになってくるところもあるだろうが、いずれにせよ重要な存在になるに違いない。
名前的もっと派手な画業かとおもいきや、極めて実直で真面目な印象である。
一方でそれだけではない遊び心や画家としての野心が全くないわけではもちろんない。
西洋の作品のさまざまをつなぎ合わせて違う絵を構築するセンスなどは現代的な感性にも感じる。
有名か無名かなんて問題ではない。
そこにアグレッシブな挑戦の軌跡があれば、それが一番だ。
亜欧堂田善と音楽と
そんな彼の作品と音楽を重ねてみると、どんなだろうかと考えるわけだが、あえてこちらでどうだろうか。
日本が誇るエレクトロロックの代表格、Boom Boom Satellites。
Voの川島さんが病気により他界してしまったことで活動終了となってしまったのだけど、Prodigyやケミブラと同時代でロックとダンスのクロスオーヴァーを実現させ、逆輸入的に日本でも人気を得ていった。
その音作りは実に職人的で、一般的な認知や人気よりもクリエイター好みなところもあり、いっときTVCMでもよくタイアップされていた。
今は中野さんがノベンバの小林くんと組んでSpellboundというバンドを組んでいるが、やはり音作りのこだわりには職人的なものを感じるし、同時にエモーショナルな熱さもしっかりと兼ね備えている。
知っている人は一般層とまではいえないが、その音楽性も音楽自体も、世界的に見てもハイクオリティだと思う。
知名度だけで測ることしかできないやつには理解できないだろうが、いいものはいい。
まとめ
こういうマニアックというか、歴史的に評価の定まっていない画家の展示会はなかなか開かれないし、間違っても六本木とかの美術館で開かれることはないだろう。
それだけ商業性には縁遠いと思うけど、そんなことは本質ではない。
千葉市美術館にしろSOMPO美術館にしろ、こういう日の目を見なかった画家の絵を見られるのは嬉しいことだ。
本当にまだまだこれから研究のまたれる人だと思うし、作品も派手さはない。
だけど、後数年したらどうなるかなんてわからないしね。
こういう人に焦点を当てた展示会は面白い。
ヴァロットン 黒と白
コロナが少し落ち着いて以降、音楽エンタメにおいては海外アーティストの来日もバンバン増えており、嬉しい限りだ。
そして美術館においても、海外の美術館とのやりとりも再開できたのか、様々な企画展が開催されており、こちらも非常に嬉しい限りである。
日本の絵も等しく見ているのでそれはそれでいいのだけど、せっかくならいろんな展示が見たいし、なんなら海外があかんからと一時やたら北斎ばかりになったのは、正直企画力のなさではないかと思ってしまった。
そんな中でも気を吐きまくった山種美術館や千葉市美術館、大田記念美術館などは引き続き支持していきたいところだ。
さて、そんな私のお気に入り美術館の一つが、東京・丸の内にある三菱1号美術館。
海外の作家の作品を中心に収蔵しており、特にルドンの大きな静物画もコレクションしているのだけど、その中の一つとしてフェリックス・ヴァロットンという人の作品も多く持っている。
現在そのヴァロットンを中心とした企画展を開催しており、今日ようやく行ってきたんだけど、これがよかった。
これまでも彼の作品は同時代の印象派近辺の画家の展示されていたので見たことはあったし、実はちょっと好きだったのでこうしてまとめてみたれるのは嬉しいことである。
作品数も多いボリューミーな展示だったが、満足度は非常に高かった。
ヴァロットンー黒と白
ヴァロットンは版画作品を中心に作っていた人で、同時代にはボナールやロートレックもいるんだけど、私はどちらも大好きで、彼らとも交流があったというだけあってか知らんが、やっぱり彼の作品もすごく楽しめた。
【開催概要】
19世紀末のパリで活躍したナビ派の画家フェリックス・ヴァロットン(1865-1925)は、黒一色の革新的な木版画で名声を得ました。独特の視点と多様な表現、そして卓越したデザインセンスをもつヴァロットン作品は、まるで解けない謎のように今でも私たちを魅了してやみません。中でも真骨頂ともいえるのが、木版画です。
三菱一号館美術館は、世界有数のヴァロットン版画コレクションを誇ります。希少性の高い連作〈アンティミテ〉〈楽器〉〈万国博覧会〉〈これが戦争だ!〉の揃いのほか、約180点のコレクションを一挙初公開します。黒と白のみで作り出された世界に焦点をあて、未だ捉えきることができないヴァロットンの魅力に迫ります。また、当館と2009年より姉妹館提携を行うトゥールーズ=ロートレック美術館開館100周年を記念した、ロートレックとの特別関連展示も併せてお楽しみください。
【開催期間】
2022年10月29日(土) 〜 2023年1月29日(日)
出典
正直版画作品って、これまでそんなに興味深く見たことってなかったんだけど、彼の作品はデザイン性含めてとてもよかった。
また、風刺画なんかで有名になったところもあるためか、象徴的に表現されることで含蓄があって、これってなんだろうと考えること自体が面白い。
個人的みどころ
今回は代表的な版画作品だけでなく、油彩画も展示されていたのが新鮮だった。
彼の作品だけでなくロートレックや、同じように版画作品も多く残したヴェイヤールの作品もあり、こういう作品をまとまってみる機会自体が初めてだったので、何かにつけよかった。
まずは自画像。
当初はやはり困窮していた時期もあったそうだが、彼はそれでもスーツでビシッと決めていたそうだ。
写真も残されているんだけど、この絵の通り厳格そうな人であったようだ。
他方で作品自体はポップなものも多く、見ていてつい笑ってしまうような作品も少なくない。
彼は肖像画なんかも多く手掛けたのだけど、こうしたデフォルメした物が大くあり。
可愛らしさの中に絶妙に毒っけのものが多く、そこに風刺画家としての特徴だろうか。
当代の政治家や有名人をこうして描いていて、のちのキャリアでも引き合いのあった肖像画、私も描いてみてもらいたいと思ってしまう。
いうてもキャリア初期は、風刺画ばかり描いていたわけでもないようで、歴史上の有名人を描いていることも。
なんでこの4人を同時に描いたのか、カエサルはローマの群雄、一時代を築きながらも最後は暗殺されてしまった。
ソクラテスは言わずと知れた哲学の大家、誰もが授業で習う存在だ。
イエスは言わずもがな、キリスト教の始祖で、歴史上の誰よりも影響力の強い人だといえるが、当時はただの大工だったという。
そしてネロ、確かにかつての皇帝でローマを再建した大きな功績はあるものの、他方で暴君として歴史に名を残す存在である。
だいぶ色の違う4人と感じるが、ちょっと見方を変えれば何かの皮肉だろうか、と思えなくもないが。
彼の作品にはいくつか風景画もあるのだけど、こちらもその一つ。
なんとなく浮世絵の影響を感じさせるところがあるが、実際当代の他の画家同様、彼も日本美術に関心を寄せており、自身でもコレクションしていたそうだ。
浮世絵は、当時の日本では今でいう漫画みたいなもので、芸術作品として評価されているものではなかったが、たまたま海外へ輸出品の包み紙として海を渡った際に目に留まり、これおもろいやんけ、といって特にフランスなんかで注目が集まり、ジャポニズムなどという概念が生まれるに至ったわけだ。
今も昔も日本を発見するのは日本人ではない。
それはともかく西洋画といえば写真と見紛うような写実性が特徴なわけだが、その表現も何年も経てば色褪せて見えてしまう。
さらに写真技術が出て来れば、写実性そのものの価値ってなんだろう?もっといえば絵画ってなんだろうという問いに立ち返るわけで、その時に平面的で、どこから見ているかわからないような視点の取り方、目の前を塞ぐようなものを置く構図や、何より非現実的なまでの派手な色使いなど、確かに写実性にこだわる世界から見ればなんだこれ!と思うよな。
展示の中盤からは、彼の代名詞的な表現である風刺画や群衆を描いた絵をまとめて展示している。
こちらは平和的な光景、街中で楽器隊が演奏し、道ゆく人が任意に合唱に参加する。
右端には母娘と思われる2人が駆けつけたり、手前では歌詞カードを見ながら練習している人たちの姿も。
当時のパリは近代化がどんどん進んでいた頃だったので、そうした新しい時代に向かう時の高揚感みたいなものが感じられるように思う。
ただ、たまたま展示の傾向がそうだっただけなのかもしれないけど、どちらかというと光の側面よりもその影を描くところに真価があるように思う。
こちらは馬車に轢かれてしまう人。
馬を制する人たちは必死に止めて、操馬主は、やっちまった・・・と言った感じだろうか、それに比して周りの人の他人事感満載の顔、轢かれた当人は既に事切れているように虚無の表情だ。
なかなか凄惨な場面だけど、最近でいえば電車事故の現場って存外こんな感じなのかなと思ったり。
こちらはデモ行進をする学生と、それにより往来を遮断された人たちの姿。
真ん中の黒の集団がデモ隊だが、こうして白と黒の色分けでメインとその他を分けて表現しているのだけど、後々もこの白と黒のコントラストの見せ方がどんどんすごくなっていく。
何か大きな主張があって歩いているはずの人たちの顔を見ると、怒りに溢れる人もあれば単に祭りの神輿を担いでいるような呑気な顔をしている人もあり、また群衆も興味深そうに見る人もあれば困った顔をする子供もいたりと、一見画一的なようでよく見ると表情豊かに描かれており、しかも版画なのでそんなに情報量が多くないにも関わらずこれだけ豊かに描けているのはすごいなと思うよね。
彼はしばしば子供の姿も描いている。
この作品は、タイトルはいかにもほっこりするのだけど、描かれているのは警察が犯人を連行するところを、子供達が囲んでいるという構図だ。
展示の紹介では、子供たちの無邪気さが時に残酷なものになる、的なことが書いてあったけど、個人的には世の中の大半の人は本当はこうした好奇心、野次馬根性みたいなものを持っていて、体面があるからそうしないだけで、実際はこんな小汚いところがあるという皮肉かなと思った。
左の方で、唯一こちらを見ている子がいるが、なんだか嫌な表情をしている。
彼の作品は、群衆の中でわずかにこちらを見ている人がいて、それが何かを示しているのかなと感じさせる。
そして極め付けはこちらだろう。
入水自殺者を引き上げる絵である。
全体に暗くて暗鬱とした空気があるが、右下には引き上げに来た人、左下には自殺者の顔だけが浮かんでいる。
ぱっと見それとわからないくらいだけど、なんだか無念を隠しきれないような印象だ。
そして橋の上にはそれを眺める野次馬の姿。
白抜きで円が描かれているだけだが、どんだけいるんだと。
私もどちらかといえば皮肉屋なところがあるけど、他人事として眺めるこれらの人たちっていつの時代にもいるんだなと思うところだ。
別に彼らが何かをしたわけではないにせよ、なんかモヤモヤするような思いがするのである。
他にも多くの作品があるけど、切れ味も鋭いがなんかずんと重たい物をこっそり投げかけてくるような感じがして、見応え抜群である。
彼は後年金持ちの令嬢と結婚したことで、経済的にも安定し、かつ暮らしも徐々に代わっていったそうだ。
画家としての評価も高まり、海外からも発注がくるなどまさに順風満帆。
その影響もあってか、そうした社会的な風刺よりもより身近な物をモチーフにするようになり、ボナールらと同じく親密派などと呼ばれるような作品も。
展示ではそのボナールやヴュイヤール、ロートレックらの作品も展示されている。
先にも書いたがボナールもロートレックも好きなんだけど、ロートレックとは彼も特に親交があったとか。
そんなロートレックの絵は洒落ていて華やかなんだけど、やっぱりちょっと影がある感じだなんともいいのである。
このセクションでは彼の商業的な活動の絵画を中心に紹介しているけど、雑誌の表紙なんかも手がけていくためか、デザイン性が洗練されていくような印象だ。
こちらはNiBという雑誌の表紙だが、1号はロートレックが手がけたそうだ。
挿絵の仕事も多く手がけており、メッセージよりも作品に寄せるものになるため純粋に絵画デザインとして面白い。
こちらは音楽家のシューマン、他にもドストエフスキーなんかも依頼に応じて描いている。
彼のキャリア初期からの作風で、この辺りは素直にイラスト感があって親しみやすい。
これ以降は先に書いたような密室をモチーフにした絵を描いている。
裸婦像は伝統的なモチーフの一つだが、完全に気の抜けた1場面を覗き見しているような作品である。
指先にじゃれつく猫も含めて、リラックスした雰囲気があるが、タイトルは怠惰である。
ちょっと現代的な空気感のあるのが、新時代的な感じがするところだ。
こちらはやや意味深は作品。
連絡の一つなのだが、そのテーマは結婚生活だとか。
2人は夫婦なのかしら?と思いつつ、場所は書斎(=仕事場)だとすると、女性はその秘書か助手だろうか。
あくまで仕事で一緒にやっていると見せかけて、実は不倫関係にあるというような作品だろうか。
絵とタイトルで見せるやり方は、シュールレアリズム的な見せ方も思いおこさせるな。
また一連の作品にはこんな洒落たものも。
音楽関係とも繋がりがあったそうで、演奏家をモチーフにした作品で、他にもチェロ、バイオリン、ピアノなども描いており、いずれも洒落た絵なので部屋に飾りたくなる。
また猫がじゃれついているが、猫好きだったのかな。
それはともかく、白と黒のみながら非常にスタイリッシュで、単純ん光と影だけでないところも描かれているのがすごい。
調度品のタンスのところはやや細かい装飾具も描かれているあたりで、しっかりと技も見せている。
そして、私がなぜか気になったのがこちらの作品。
一見何気ない夫婦の一場面のようだが、男はあらぬ方向を見ている。
無表情ながら倦怠感のような空気を醸しているあたり、取り返しのつかないものってなにかな?と考えてしまう。
ただ、私は右の方に描かれている植木の鉢、ここに描かれている絵が気になって仕方なかった。
多分魚なんだけど、アニメのキャラクタみたいなコミカルな顔をしており、独特の違和感を醸しているのだ。
男性はそちらを見遣っているので、ひょっとしたら「なんでこんな変な柄のやつ買っちゃったんだろう・・・」という後悔なのかなと思うとちょっと笑えてしまった。
自分でもたまにしょうもない物を買ってしまい、なんとなく眺めてみてはなんでこれ買ったんだっけ?としみじみ考え込むことがあるので、変な共感を勝手にしてしまっただけなんだが。
この頃の最高傑作とも言われているらしいのがこちら。
玄関先の何気ない場面を描いているが、画面の半分以上が黒塗りという大胆な構図。
外は明るく中は真っ暗という、単純に光と影のコントラストとも取れるけど、一方で家の中にいることがまるで暗黒の時間とでもいいたいのだろうか。
そうしたメッセージ性を考えるのも面白いし、単純に絵として直感的にセンスいいなと感じてしまう。
展示の終盤ではさらにモチーフも広がっていくが、特に最後の方では戦争画を描くようになったとか。
自身も軍隊への従軍を志願したものの、年齢制限でそれができず落胆してしばらくは創作活動自体も止まっていたというから、本気だったのだろう。
これが戦争だという一連の作品になるが、有刺鉄線が一つの象徴のようにしばしば描かれている。
満点の星空の元、有刺鉄線に絡め取られる兵士たちが描かれており、色のなさが却ってなんともいえない虚しさみたいなものも感じさせるように思う。
他にも一般市民が巻き込まれる場面や、暗闇で敵襲を受ける場面など、なかなかショッキングな場面も描かれている。
今まさに展開されているウクライナ侵攻でニュースで伝え聞く姿と被るので、戦争というものの普遍的な姿なんだろう。
彼は木版画だけでなく、油彩画も残しているが、最後まで画家としては成功していたようだ。
しかし、がんにかかり、手術をしたものの、その3日後になくなってしまったそうだ。
ちなみに誕生日は12月28日、その翌日だったという。
60歳というまだまだこれからというところだったので、無念さもあったろうな。
彼の作品は、展示会で数点は見かけるので見たことはあったけど、こうしてまとめて見ると色々見えてきて面白かった。
また、版画自体正直私はあんまり興味深く見たことはなかったのだけど、なるほどそういう表現なんだなということも知れたので、とても良かったね。
彼は新しい版画の時代を切り開いたという評価もあるので、日本ではあまり認知度は高くないようだが、ちょっと見におしゃれで、小難しさもない、可愛らしいキャッチーな作品も多くあるので、普段あまり絵とか見ない人にもおすすめである。
ヴァロットンと音楽と
さて、そんな彼の作品と音楽とでいうと、こちらなどどうだろうか。
今や現在作家の大家の1人となりつつある町田康が率いたINUの唯一のアルバムの1曲目を飾る”フェイドアウト”。
曲はセックス・ピストルズやPILの影響も強いためかキャッチーでポップ。
歌詞は当時からその文学性を発揮しているわけだが、彼の視点も社会の有象無象の群衆のような人たちへ向けられている。
また家についての皮肉っぽい曲もあるし、最後の曲もそれを総ざらいするような歌詞である。
代表曲”飯食うな”含めて、特に風刺画作家としてのヴァロットンと通じるところがあるのではないかと思った次第だ。
既に古典の領域と言える音楽だが、その視点や価値観は今でも本質的に変わらない価値を持っていると思っている。
まとめ
なんとなく気になっていた画家ではあったが、今回は作品も多く、キャリアを総括するような展示校正で、また会場の装飾も凝っていて面白かった。
同時代の印象派と呼ばれた画家たちと比べると客入りもそこまで多くなかったが、グッズストアではTシャツコーナーにも多くの人がいたのが印象的だった。
それだけデザイン的な観点でも洗練さがあって魅力的ということである。
表現は極めてミニマルながらそこに情報量を載せるのは、それだけ想像力を喚起させられているということに他ならない。
こういう作風って私は大好きなので、本当におすすめの展示であるよ。